なんで清水じゃなくてジュビロ行っちゃったのよ。
その女は実に不可解なものを見る目で此方を繁々と見つめてきた。
ああ、セーラー服のタイが曲がってる。そんなどうでもいいことに気付いて直してやりたいような、指摘してやりたいような、あえて知らない振りをしてやろうか考えがグルグル周る。
当の本人は相変わらずの仏頂面で「みかんってカラーリング的に清水の色なのに」と果てしなくどうでもいいかつ偏見もいいところな考えを披露してくれている。
知らなかったけどお前清水サポか。そうなのか。うちの地元で清水サポっつったらまぁ周りから大顰蹙だろうけどさ。分かるけどさ。それだけダービーが持つ深い意味とか知ってるけどさ。いやでもオレンジだからってエスパルスって考えはどうなんだそれ。巨人だってオレンジじゃん。偏見じゃん。
聞いてみれば別にそういうわけでもないらしい。なんだよ袋井とか磐田とか浜松とかこっち方面で清水好きの同年代の奴なんて早々見かけないからちょっと貴重な存在だとかそんな目で見ちゃったじゃんか。
文句を言いながらも、は何かプリントを書き込んでいる。少しだけ覗いてみれば何やら問題用紙っぽかった。
テストでもないのに、こんなもんをやるっていうことはそれこそ「受験」のことを考えてのことだろう。
そういえば彼女は受験はどこにするんだろうか。別に隠しているわけでもないだろうし俺はふと過ぎった考えをそのまま直接言ってみることにした。
「なぁおい、。お前高校どこ志望してたっけ」
「はぁ?何唐突に。……清水東の普通科だけど」
「……うん、悪ぃ、俺の耳が遠くなったっぽい」
清水東といえば静岡県内でもトップクラスの偏差値を誇る県立高校だ。ついでにいえばサッカーも強い。県大会といえば清水東と静岡学園に東海大翔洋、後藤枝東だとかサッカーが有名な高校はいっぱいあるけれど、それら全部に大体有名選手でてるけどさ。
「有り得ない」に等しかった。彼女の成績では多分無理だろう、と思った。
だが俺の心配を他所に彼女は「余計なお世話だ」と言いながらも、過去の問題集を解き続けながら下らない会話を時折俺と交わす。
何を考えているんだろう。女ってさっぱりだ。の本意なんてもんはまるで分からなかった。
キュ、キュ、キュ。
赤ペンの走る音が耳に届く。白い問題用紙に黒いプリントされた文字と、シャーペンの文字に赤いペンがプラスされる。サインペンは大きなバッテンと丸をいくつも描き、は一つ溜息をようやく零した。
「ふはー……」
「おー、終わった?」
「七割、ってとこかな」
「何それ、良いの悪ぃの?」
「平均ってとこかなー」
「ぶはっ、流石」
サッカー雑誌を一ページ捲る。サッカー選手の何気ないオフの生活についてが書かれていた。
最近こいつ調子悪いんだよな、とか他人事のように思っているとスコーンと良い音を立ててサインペンのキャップらしきものが飛んできて、俺の額にクリーンヒットした。
この状況下で投げてくる人間なんていうのは早々に居なくて、思いつくのは目の前でサインペンを使っていたなのだけれど、状況判断が一瞬できなくてぽかんと口をあけたまま俺は硬直していたらしい。
当の本人は身体をぽきぽき鳴らせて首をかしげている。何食わぬ顔がいっそう腹立たしかった。
「山口こそ良いわけ、ベンキョー」
「あー……俺もやんなきゃなぁ」
だが言っていることは実のところ正論だ。受験だなんて考えるだけで鬱屈だ。ああ、嫌だ嫌だ。
勉強が嫌いなわけではないが、詰め込むだけの受験勉強は退屈なことこの上ない。
もっと「どうしてそうなる」を追求したいものだとに愚痴ればは「理系の頭だよねぇ」と実にあっさりばっさり言い放った。ついでに右脳がどうとか、左脳がどうとか。
昨日見てたテレビの影響だろうと聞いてみればばれたか、と実にあっさりさっぱりあいつは言い切り、くるんとプリントを裏にひっくり返した。
「で、山口はどこ行くの?」
「俺? 浜松市立希望してるけど」
「アンタも十分レベル高いとこ狙ってるじゃん」
「うっせ。近いだろ、浜松市立」
「まぁねぇ」
じゃあ高校は別になるわけだね、当たり前だけど。
うんうん、と頷いては俺に投げたサインペンのキャップをして、ペンを戻した。
清水東かぁ、と俺は先ほど鈍器で頭を殴られたようなショックが抜けきらず思わずもう一度繰り返してしまった。
学年委員とか生徒会長の山田や鈴木が行きたがりそうな、というか実際志望しているような高校だ。それをこのが行きたがるなんて!驚かずにはいられない。
中学三年間のうちに知らずに出来た友人だ。友達の友達が知らぬ間に友人になっていたのに等しい。明け透けないさっくりさっぱりした物言いは嫌いではなかったし、実のところ女特有のあの甲高い声とか上げることが割合少なかったし、付き合いやすい人間だと思う。
しかしそんなレベルの高い高校に行くなんて多分誰も知らないのだろう。だってこいつ、そんな頭よかったっけ?
「お前さぁ」
「んー」
「……清水東ってことは、行く行くは東大、とか考えてる?」
「…………東大かぁ、それはとてつもないロマンだね」
遠い目でしみじみ言うあたり、こいつもやっぱり静岡県民特有の県民性というものを持っているのだと思う。それは俺もなので黙っておいたが、は「そうかあ、いいよねぇ」と夢を見ているかのように呟いた。
結局「考えてないや」という結論に至り、何食わぬ顔でいつものような表情では小さな伸びをしてついでにあくびもした。
「まぁいいんだけどね」
「何が?」
「今を生きるので精一杯すぎて先のことなんか見えないって話」
「……ふーん、そんなもんか?」
「アンタだってサッカーやるので一杯一杯すぎて、他のことなんか見えてないでしょ。それと一緒よ」
なんか違う気がする……が、まぁ、そんなもんかと納得したような気もした。は過去問を閉じて、自分に言い聞かせるように「そんなもん」と繰り返している。
……その時、俺は僅かな違和感を感じたけれど、あっという間に次の話題に移り、忘れてしまっていた。
それに気付いたのは、家に帰って、夜のジョギングをしていた時のこと。
頭をちらついた「進路」の二文字。「未来」のこと。
ふと、俺は足を止めた。二時間ほど走り続けたせいもあるのだろう。足は重たく、心臓もバクバク鼓動が激しい。身体は火照りきっていて、生ぬるい風が心地よく感じられた。
【 このまま自分は本当にサッカーを続けてサッカー選手になれるのか? 】
不意に過ぎった疑問。
ジュニアユースだから、というのは言い訳に過ぎない。選抜にも選ばれたし、U-14にもなった。多分今年のU-15を選び抜くための東海選抜の召集の呼び出しもあるだろう。
けれど、それが「いつまでも」続くのか。本当に自分は「やり遂げることが出来るのか」という疑問は大きくなっていく。
プライドはある。今まで蓄積してきた個人技もある。自分自身が築き上げた場所だから、他の誰にも取られたくない。けれど世の中そう簡単にうまくいくなんて俺は思っていない。振り返ってみれば順風満帆に見える俺の人生も、その時その時に山があったし、その時その時につらいこともあった。
激しいポジション争いや、同じジュニアユースで自分より強い奴がいたりだとか、試合に負けた時だとか。
その時々によって其々悔しかったし、辛かった。それでも「やめたくない」と思ったし、やめられなかった。
でも。
―――― でも。
“ プロ ” になれる奴は、限りなくゼロに等しい。その限りなくゼロに等しい中に俺は、本当に入れるのだろうか。
時折、激しく不安になる。
サッカーで生きていくと、サッカーと共に生きていくと決めたのは小学生だった頃だ。プロのサッカー選手になりたいと本気で思って、だからジュビロのスクールに通い、その結果ジュニアユースに選ばれた。この調子ならユースにそのまま昇格できるだろうとも言われた。
全てが、自分に繋がっている。過去の自分が、今の自分の血となり肉となり骨になっている。
だから、今こうしている。
今がこうだから、未来もきっと、今の自分が骨となり血となり肉になっているのだろう。
だから、悩む必要は無いんだ。
そんな風に思ったら、60年代を代表するイギリスのバンドの曲を思い出した。その歌い手は射殺されて、伝説となってしまったと英語の教科書に書いてあったけれど曲はとても好きだった。
レット・イット・ビー。
なるようになる。どうにでもなる。ただ、なすがままに。
でも、その「なるようになる」ためには、努力がきっと必要で。
神様ってやつは頑張ってる奴にしか試練を与えない、乗り越えられる試練しか与えないもんらしい。
……コーチの受け売りだけど。
誰でも皆見えない未来が不安なのだ。俺も、も。
ああ、なんだかとっても青春してる。そんな風にぼんやり思った。
きっと、千裕に言ったら呆れられてしまうんだろうなぁとか、スガに言ったらアイツは俺よりも余程大人っぽいから大人な意見を言うんだろうとか、頭をグルグルさせる。
明日、に言ってやろう。「悩みすぎるよりも一つでも多く問題解いて、清水東受かれ」って。
その時にはきっと、俺もあいつも一つの答えぐらい見つけ出しているんだろう。多分、きっと。
そう思って、俺は全力のダッシュで上り坂を登っていった。