東京選抜に落ちた。最後まで名前を選ばれることはなかった。
茫然自失になるかと思ったが、実を突きつけられて三上は鈍器で頭を殴られたような、それでいてどこか「ああ、やっぱりな」と思う部分もあり溜息をつくことも出来ず、乾いた笑いを浮かべる。
精一杯やったか、と聞かれれば分からない。自分のよさも出し切れたかは分からない。けれども、悔しいと思う気持ちはあった。悔恨。焦燥。様々な気持ちが渦を巻いて、それでいて言葉に出来ないせいで腹の中で余計にミックスされる。
選抜の合宿場から井の頭線を乗り継いで、駅を降り河川敷を歩く。夕焼けに染まる河川はどこかキラキラと輝いているのに、気持ちは晴れない。自分以外の同校のメンバーは受かった。自分は落ちた。その現実が目に焼きついて離れない。
一緒に帰るかと渋沢は気を使ってくれたが、その優しさが逆に痛く、そして自分が最も嫌いな男が受かったことが余計に気持ちを焦らせた。
「――別に」
大会優勝をすることが最大の目標だから、選抜で受からなくても、そちらに集中すればいい話だ。
そうやってどうにか自分自身に言い聞かせようとする。けれど、言い聞かせても言い聞かせても彼の中にあるもう一人の自分の【本音】が嘘だとせせら笑い、ねっとりと取り付くように言うのだ。
俺は負けたんだ。俺はあいつに勝てなかったんだ。俺は「10番」にはなれない。
やっていられない。苛立ちを隠せず、舌打ちして振り切るように駆け出した。一心不乱に駆け出したのはそんな気持ちを認めたくなかったことと彼の中にある矜持が崩壊していくのが苦しかったからだ。
夕焼けが川面をオレンジに染め上げ、子供たちの騒がしい声が耳に残響として残る。
はぁ、はぁ、と息を切らすほどにずっと彼は走り続け、やがて糸が切れたように足を止めた。心臓は勢い良く走ったせいだろう、ドクドクと速いリズムでビートを刻んでいる。
「――――ちき、しょう」
涙は出てこない。ただ、痛かった。それまで俯くことをしなかった彼がこのときやっと顔を俯かせた。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
声にならない声が咽喉の奥で何度も何度も渦を巻いて、そして消えることなく余計に心臓を貫いていく。にじみ出る汗を無理矢理手で拭っていると、前方から女の高い悲鳴声が聞こえてきた。何事かと彼は顔を上げると何か小さくて速いものが此方へと突進してきている。
このとき彼も避けれれば良かったのだが、生憎と考え事を黙々としていたせいで反応が遅れた。
「ああ、あれは犬だ」と確認してから彼が恐ろしい激痛に見舞われるまで大体三秒ほど。何が起こったのかはともかくとして、三上は地面に膝をつき、がくっと蹲った。その傍らでは犬が遊んで欲しいのか尻尾を振って「わん」と小さく鳴いている。
「ああああすいません!大丈夫ですか!」
「……いってぇ」
思わず零れ落ちた言葉に、恐らくはその犬の飼い主であろう人間はもう一度ごめんなさい、と頭を下げた。ようやく彼はその女の存在を認識し、少しだけ驚く。恐らくは同い年、ないしは年下程度の女だ。
泣きっ面に蜂というのはこういうことなのだろうか。落ち込んでいる暇など神は与えてくれないということなのか。何をやっても苛立ちばかり覚え、三上は小さな舌打ちをひとつ零す。
「あの、大丈夫ですか、本当にすみません……!」
「あー……別にいいんで」
「で、でも」
「もう良いから」
払いのけるように鞄を持ち直し、三上が歩き出したのを慌てて女は追いかけてくる。鬱陶しい。苛立ちを隠すことも出来ず膨張していくばかりで今にも髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回してしまいたいほどだ。
「あ」と女は何かに気付くと片手にぶら下がっていた近くにある大手コンビニチェーンのビニール袋から一つ何かを取り出し「じゃあ、お詫びにこれ……」と半ば押し付けるような形で三上にそれを突き出す。
押し付けられたせいで思わず支えようと手が出てしまい、それを受け取るとひんやりとしたアイスで三上は顔を上げるが、女は矢張り頭を下げるばかりで「本当にすみませんでした」と言い残すと事の発端になったにも関わらず暑さにばてている飼い犬に「帰るよ」と引っ張り、そのまま去っていった。
受け取ったアイスはコンビニの中で恐らくは一番高い四百円代のバニラアイスだった。
「……甘っ」
口の中でとろけるアイスは、じんわりと疲れを癒すほどに甘い。甘いものを食べると心が落ち着くというが正にその通りで、彼の中にあったササクレだった気持ちはほんの少しだけ、緩んだ。
* * *
次の日、彼は部活を休んだ。休むには欠席理由を言わなければならないのだが、恐らくは気の利くチームのキャプテンが何かを言ったのだろう。鬼監督ということで有名な、三上にとっては忌々しく憎々しい監督がいつも以上の仏頂面で「今日は良い」と言い出したのだ。明日は雨か、それとも雪か、はたまた槍でも振ってくるのではないかと不安になったが、折角の休みだったので彼はその足をずるずると引きずって松葉寮を出ると駅前までだらだらと歩いた。
天気は快晴、真夏日。突き抜けんばかりの青空とさんさんと光り輝く太陽に「ここ何年海に行っていないだろう」ということをふと思い出してはぁ、と重たい溜息を零した。海が特別好きだというわけではないが、サッカー漬けになりっぱなしの日々に辟易していたのかもしれない。何よりも昨日の今日だ、気持ちは浮上しやしない。
駅近くにあるLOFTで買い物をすべく歩いたり、偶にはと服を見て回るがどうにも心が晴れやしない。ゲームセンターでガンシューティングを試しにやり、鬱憤を晴らすべくガンガンと撃つがゾンビは彼の心境など同然分かるわけもなく襲ってくるばかりだ。結局ゲームオーバーになってしまい、苛立ちは益々増すばかりだ。
あー、くそ。溜息を吐き出すと諦めて彼は来た道を戻り、駅の反対側の出口へぐるりと回って出て駅の先にある公園で一人黄昏ることにした。ただ、ここでも彼は念頭においておかなかったせいなのだが、この公園は必然的にカップルが多い。夏だというのにイチャイチャべたべた……見ているこちらが蒸暑くなりそうな態度に生気を吸い取られ、三上は重苦しい溜息を本日何度目か分からない勢いで吐き出した。
本当についていない。
野外舞台の上手に腰掛けると近くの店で売っていた水を飲むと流石に買いたてということもあって咽喉が潤い、一瞬の暑さを忘れるほどに冷たい。
「――あーくそ」
足を投げ出し、鬱屈とした気持ちを払拭できず悶々と彼は口をへの字にして沈黙する。空は高く、相変わらず青い。
昨日貰ったアイスは一人で食べるにしては量が多く冷凍庫に名前のふせん付きで入れておいたが間違いなく部員の誰かが食べそうで、それにも腹が立つ。悶々としながらどうにかして目を閉じる。
選抜に落ちたこと、これからのこと、色々なことを考えては余計に嫌になってくるばかりだ。
そのときだ。あの、とどこかで聞いたことがある声が聞こえてきたのは。
「……あの、やっぱり、昨日の人ですよね」
「…………あ?」
少し日差しの眩しさから目を細めながらも三上が顔を上げると、そこには昨日の突進してきた犬の飼い主が立っていた。以外だったことは彼女が身に纏っている制服は間違いなく自分と同じ武蔵森の女子の制服だ。
男子棟と女子棟と其々別なので当然三上はこの女のことを知らないし、彼女もまた三上のことを知らない。何よりも三上は私服だ。彼女は彼が自分と同じ学校の人間であることに微塵も気付けていないようで、本当に昨日はすみませんでした、ともう一度頭をさげるばかりだ。暫くの間二人の間には沈黙が訪れる。なんとなく気まずいムードに何か話さなくてはと迷うのだが言葉は出てこない。
先に口を開いたのは三上だが、三上は至って表情を変えることなく、ぽつり、と呟く程度の声の大きさで言う。
「……その制服」
「え」
「武蔵森の中学部のだろ」
何故知っているのだろう。思わず彼女は顔を上げたが、三上は知っていて当たり前だ、と前提で一言言うと「俺も武蔵森だから」と一度区切ってからさりげなくそう言った。
女の目はこれでもかとばかりにひん剥かれ「そうなんですか?!」とどう考えても、どう見ても三上のことを知らないであろう言葉を漏らす。女は と言うらしい。しかも彼と話していくうちに彼女もまた三年生だということが発覚しお互いの目が点になる。偶然に偶然が重なり合い、どう反応したらいいのかお互いに困る。
「……なんでお前、制服なんだよ、夏休みなのに」
「あ、補講で……」
「ふーん」
会話が続かない。三上君はどうしてここに、とは尋ねたが三上は「何だっていいだろ」と突っぱねるばかりで返答にすらなっていない。
そんな二人を容赦なく紫外線と日差しが突き刺していく。池の近くだといっても、暑いものは暑く、じんわりと肌が汗ばんでいて気持ち悪い。おもむろには先日同様勢い良く立ち上がると三上に「直ぐ近くにおいしいジェラート屋があるんでそこ行きましょう」といい放った。
一見すればどこかのナンパ師まがいな言葉なのだが、彼女は真面目な顔で、からかおうものなら噛み付かれてしまいそうな勢いを持っている。三上は別にいいと首を振ったのだがは昨日の侘びをちゃんとしたいと主張を曲げることはしない。
そもそも昨日の侘びなら既に大きいサイズのアイスを一つ貰っているので、彼女のお詫びは重複してしまうのだが、彼女にはそんなことなど関係ないらしい。
「あ、それとも甘いもの苦手とか…」
「いや、別に……」
「なら! 本当にすぐそこなので」
三上が誘いに乗ったのは単純に「暑かったから」で他に理由なんてものは無い。前を歩くの後姿をぼんやりと見ながらつきって歩いて行くと階段を上りきった先に少しこじんまりとした喫茶店の前に彼女は立ち「ここです」と楽しそうに笑った。
店の中には黒い猫が座って涼しそうにごろりと眠っていた。飲食店に猫がいることに彼は驚いたが、里親募集の張り紙を見て「ああ」と妙に納得する。ジェラートはいくつも美味しそうに置かれており、食べる気がなかった三上の咽喉が自然と鳴る。窓際のテーブルに二人で座り、三上はアイスコーヒーと共にカップでダブルのアイスを結局彼女からどうぞと渡された。
別にいい、と言うつもりが既に彼女はジェラートを頼んでおり、渋々と彼はアイスを口に運ぶ。さっぱりとした、夏に合う味付けだ。
「三上君も、武蔵森なんですよね?」
「ああ、そうだけど」
「……じゃあ、受験はどうするんですか?」
受験。進路。そんなこと三上の頭の中には全く入っていなかった。彼女の言葉に驚き、言葉を待てばは外部受験しようか悩んでることをぽつり、ぽつりと呟く。
正直なところをいえば、三上にはどうでもいい話だ。それとなく「エスカレーターがあるだろ」と彼は言うとは顔を渋め「目的もないのに上にあがって楽するみたいな気がして」と申し訳なさそうに言う。三上にはそんなイメージが無い。どんな形であったところでサッカーをやり続けている自分しかイメージが無いのだ。進学するためには試験はあるのだが、実際問題彼の学力ならば問題もなく、誰でもあがれるようなものだ。
だからこそ、がそんなことに悩むことが分からず、ただ話を右耳から左耳に受け流すことだけを続け、ジェラートとアイスコーヒーを食し続けていた。
「―――三上君は、将来の夢とか、あるんですか?」
三上は即答をするつもりで口を開いた。目標なんてものは既に決まっていた。――だが、言葉にはできない。言葉にしようにも一瞬の陰りに沈黙してしまう。が首をかしげ沈黙したので彼は話をそらすように「お前はあんのか?」と質問を返した。
の答えは簡単なもので「何もないから、困ってる」と首を横に振ってそれだけ答えた。二人で沈黙をしていると、冷房の冷風が涼しく当たる。
「……ずっとそれだけやってきたら、どうしたらいいのか分かんねーよな」
彼の言葉はまるで、帰り道の分からない子供のような声だった。は顔を上げたが、三上は最後の一口を食べ終わると「ごちそうさん」といい去っていく。その後姿にが「あの」と何かを言いかけるが、結局何を言ったらいいのか分からず、首を横に振ってただ彼の背中を見続けた。
答えは、出てこない。頭を切り換えなければいけないのに、まるで切り替わらずただ惰性でサッカーを続けているのではないのだろうかという錯覚を覚え、三上ははぁ、と溜息を再び零した。
空はあんなにも晴れているのに、彼の心の中は常にどんよりと雲がかかっている。吹き飛ばしても吹き飛ばしても集まってきて、結局その雲に包まれて圧迫され――答えが出せないままだ。
次の日、彼は想像以上に早い時間に目を醒ました。のそのそと起き上がると同室の少年のいびきが聞こえてくる。
先日帰宅すると心配していたのかオロオロとしながらスーパーの袋の中にあったプリンを「ご苦労様」といってベッドに引っ掛けておいてくれたのだ。ほんの少しの罪悪感を感じながらジャージに着替え軽くランニングにでもいこうと部屋を飛び出す。
寮内は妙なぐらいにしん、としていた。
「三上」
「……藤本先輩」
寮内にある食堂に、一人の青年が腰掛けていた。前年の中盤を率いていた10番の先輩。武蔵森を全国へ率いた天才ともてはやされるほどのMFに三上はどうしてここにと目を丸めた。
時刻はまだ四時半だ。誰も起きてはいない。驚きを隠せず藤本に会釈を返すと彼は柔らかく笑って「元気そうで何よりだ」と読んでいた本を閉じる。
「選抜、終わったんだってな」
「はい。……落ちました」
「そっか。お疲れ」
彼はそれ以上慰めの言葉も、励ましの言葉もかけなかった。どうして彼がここにいるのか、どうしてここで本を読み続けているのか――三上にはただただ、分からず会釈を返すと食堂をよぎっていく。
三上が出て行った後も藤本は寮のテーブルに肘を着いてはぁ、と溜息を零した。いかんせん不器用な性格なせいか彼は行き方が狭まっているような気がして心配で仕方が無い。藤本に電話をしてきた渋沢はどっしりとGKらしい態度で「藤本先輩から、何か言ってもらえれば有難いんですが」と物動じすることなく留守番電話に残していた。改めて三上と渋沢の二人をは極端な差がある中で、いいコンビだ。
呼んでいた本を閉じるとうっすらと明るくなり始めた空を眩しそうに目を細め、藤本は見据えた。
「――今日も、暑くなりそうだ」