彼と彼女に知り合ったのは、所謂「他人の紹介」という奴だ。
当時十四歳だった伊賀仁吉と同じく当時十四歳だったは所謂「友人の友人」として実に奇妙だが後々考えれば割とよくあるケースの出会いの仕方をすることとなった。
桜庭雄一郎。彼こそが二人の接点を結びつけることになった人間である。
物語は、何年も前。暑い暑い夏の日にまで遡る。
あの日、彼女は夏期講習へと足を急がせており、彼らは選抜の練習からの帰路につくべく足を運んでいた。井の頭線に乗り、時折遠のく意識を保たせながら下らない会話を桜庭、上原そして伊賀の三人が繰り広げる中、三鷹台駅で一人の女子中学生らしき少女が乗ってきた。
桜庭が何気なくそちらを見て「あ」とほんの小さく漏らし、それに釣られて上原が桜庭を見る。
「何、どした」
「いや、クラスメイト居る」
「マジかよ」
どれ。上原が興味深く今乗ってきた五、六人の人間を見やる。席は既に埋まっており、扉前に人が列を成し立っている。満員電車とまでは行かないが、そこそこの混雑具合だ。
東京の八月は暑い。ヒートアイランドとはよくいったもので、自然の少ない上にアスファルトに太陽光が反射し、益々熱を持たせる。まるで照り焼きチキンにでもされるんじゃないかと錯覚を覚えるほどに、暑い。
クーラーがガンガンに効いた電車の中では気付きにくいが、その茹だる様な暑さが伊賀は別に嫌いではなかった。
暑いと体力を消耗するし、Jリーグでも夏場に弱いサッカーチームは幾等でも有る。それでも、彼は暑い日に飲むぬるい茶だとか、水を頭から被るだとか、そんな暑い日だからこそ出来ることが好きだし、その暑苦しい日にサッカーというハードなスポーツをすることも勿論、嫌いじゃなかった。
上原と桜庭が盛り上がっている中、あまり伊賀は興味なくぼんやり向かいの席ごしの窓を見ていた。
変わっていく風景。
あっという間に通り過ぎていく町並み。
差し込む夕焼け。
小刻みに揺れる電車の中、彼は窓という切り取られた外とのつながりをじっと見つめ続けていた。
どのくらい時間が経過したのだろう。駅は既に永福町を通り過ぎようとしているところだった。肩をつつかれて伊賀は現実に引っ張り戻される。思わずワンテンポ、動きが遅れた。スポーツ選手にあるまじき行為だと少し自分に対して呆れながらもつつかれた方へ視線を向ける。
上原が不思議そうな顔で此方を見ていた。その横には制服姿の女子中学生らしき少女と、桜庭が居る。
「何やってんの、伊賀」
「や……考え事してた。わり」
「あっそ。この子、桜庭の彼女だって」
「ちっげぇ! クラスメイトなだけだっつーの」
先ほど……といってもそれは伊賀の時間の感覚であり、実際には大分前に騒いでいた「桜庭のクラスメイト」は少々の困惑顔でどうしたらいいのか分からず桜庭の前でつり革に手をかけて立っていた。
「うちのクラスのっつーの。、さっきも言ったけどこの軽そうなのが上原で、このガチャピンみたいなのが伊賀」
「俺お前よりはまともな自覚あるぞ」
「ガチャピン言うなっての。えっと、さん?座りなよ」
身体は重たかったが、伊賀は自ら立ち上がり、彼女に席を譲った。は「え」と思わず声を漏らし慌てて「いいよいいよ」と首を横に振る。小刻みに右手もまた、ブンブンと横に振られる。
初対面で気を使われることに困惑しているのは明白で、目が泳いでいた。
「いいから」
「や、でもほら、うん、私直ぐ降りるし」
「どこで降りんの?」
「え……えーと、神泉……」
「うん、俺より降りるの後じゃん」
どうぞ。そのはっきりと言い切った口調に押されて彼女は小さくうなずき返す。伊賀のスポーツバッグが僅かに電車の動きに合わせて揺れた。
「伊賀、お前カッコよかったのな……ガチャピン並にかっこいいわ」
「桜庭、褒めてないだろ、それ」
「バカいえ、ガチャさんを嘗めるなよ、あの人宇宙にまで行っちゃったんだぞ」
「えーと、伊賀君?」
名前が当たっているのか自信がないのだろう。少々困惑が入り混じった表情では言葉を投げかける。三人の視線が一気に彼女に集中して一瞬は言葉を詰まらせたが――緩やかに笑みを浮かべて「どうも有難う」と、頭を下げた。
「あー、別に気にしないでいいよ」
「でもほら、うん、なんだろ、凄い嬉しかった。ほんとに有難う。いい人だね」
「過剰評価だって、そんなん。俺だって疲れてたら座って熟睡してるって、そこの上原みたいに」
上原は心外だと文句を言ったが、余りそこは気にしないでおくことにしよう。車内アナウンスで次の駅が渋谷だということを告げる声がして、思わず伊賀は顔を上げた。
彼は一度渋谷で降りて乗り換えなければならない。だが、それは少し惜しいな、と彼の心の中では不可解な葛藤が生まれていた。それも、伊賀自身が気付かないうちに。
今の何気ないやりとりがとても彼は気に入ったらしい。サッカー小僧とはいえ男三人に絡まれるなんてからすれば間違いなく不運に等しいのだろうだけれど、彼女は随分と穏やかに笑っていた。……この状況下でこの会話内で穏やかな笑顔が浮かべられるあたり、一種の大物っぽい雰囲気がするのは伊賀の気のせいではないだろう。
「伊賀ー渋谷だぞー」
「分かってるっての」
「伊賀君、伊賀君」
桜庭の相手は大変だと思うけど頑張ってね、と何気に酷い一言を彼女は放つと小さくお辞儀をした。その隣で桜庭が「お前は俺の母ちゃんかよ」という鋭いツッコミが入ったが、普段の桜庭の態度を考えると如何やら学校でも桜庭雄一郎という男はムードメーカーな要所があるらしい。上原と伊賀が顔をあわせるとぶは、と盛大に噴出した。
ただのクラスメイトにここまで心配されるあたり彼らしいといえば、彼らしい。
そこで彼は一つのことを思い出しぽん、と手を叩いた。
「さんさ、来月の頭暇?」
「……来月の頭、って何日?」
「要するに、まあ来週末の土曜日なんだけど」
来週末の土曜日という単語に上原と桜庭は妙に納得した顔で「あー」と適当な声を上げる。何のことかさっぱり分からないは週末の予定を頭の中で思い出して、「時間によるかも」とだけ返した。そこは嘘でも暇だよといっておくべきなのだろうが、そんな配慮を考え付くほど彼女は大人じゃない。
伊賀は「そーかー」とだけ返して少し考えて、桜庭にアイ・コンタクトを送ってみた。だがそれはわざと、露骨に逸らされて終わる。上原も、またしかり。
「え、何、何?」
「桜庭、言えよ」
「やだよ、お前が言おうとしてること大体予想ついちまったじゃん。言い出したのは伊賀だから俺知らねーから。なー上原?」
「つかお前知り合ったばっかの女子にそれ言うって想像つかねー、桜庭が言うならまだ分かるけどさ」
「だって無観客試合より人居たほうが嬉しいじゃん、そこは」
首をかしげるを他所に三人の会話は盛り上がっていく。サッカーが関係していることだということは十分に分かるのだが、はそれ以上は特に予想もつかず首を傾げるだけで終わってしまうのだ。何だ、と問えば結局桜庭がしょうがないという顔で「試合なんだよ」と教えてくれる。ああ、試合か、と考えれば分かる結果には妙に納得すると「で、私に何で言うの?」と益々首をかしげた。
「来れば? って言おうと思ったんだけど、忙しいんだよな」
「あー、ええと、何時? 場所と時間によってなら行ける……かもしれない」
「一応朝練があって、その後飯食ってからだから……多分一時ぐらい。えーと、場所は、駒沢公園の総合運動場だよな、今回?」
「お前覚えとけよ、そーだよ、プリント貰ってるだろ」
容赦なくはいる上原と桜庭のツッコミを無視して伊賀は「だって」とだけ言う。少しは考え込んだが一時、という言葉にそれなら……と付け加えた。交流試合なので意味合いも変わって来るのだがその辺は置いておこう。
「まぁ、うん、行ってもいいなら」
「予定あんじゃないの?」
「土日はゆっくり朝起きるから、朝早いと多分無理だったかなーって」
それぐらいの時間なら流石に起きてるよ、とは笑った。それにつられて伊賀もまたへらりと笑う。二人の中に流れる甘ったるいというわけでもないが「初見」というには馴染んだ空気に聊か桜庭は不可解な、頭の上にはてなマークを浮かべているようだった。その時、電車が大きく急停車しつり革が大きく揺れる。人の「わ」という小さな悲鳴があちこちから聞こえてきた。何事かと顔を上げれば「ただいま停止信号です」というアナウンスが直ぐに入ってくる。そして再び電車はゆっくりと動き出す。
「あーじゃあ俺ここで乗り換えだから。わかんねーことあったら桜庭に聞けば教えてくれるから」
「げ、マジかよ」
「っていうか呼んでくれるのはいいんだけど、伊賀くんとか上原くんとかは出るの?」
「うわ、さんそれキツイ、なんか色々えぐれた今」
上原が唸るように言ったので「え」と慌てたようには向き直ったが彼の表情は実に楽しいような顔をしている。伊賀に視線を向ければ、彼もまたしかりだ。最後に桜庭を見ると彼は二人とは異なり実に不機嫌極まりない顔をしていた。
「あー桜庭はライバルとでっかい差あるから」
「へー」
「じゃー、そういうことで」
「あ、うん、またね、伊賀君」
怒涛の展開で彼女の言葉から「またね」という単語が出てきたこと時点では自分自身に驚かずには居られなかった。たかだか席を譲ってもらっただけなのだが、たったそれだけでも「実にいい人」という印象がインプットされる。
扉が開く音がして、伊賀はの言葉に応じるように「またな」と返して次に二人に「お前らには後でメールするわ」とだけ言い残してそのまま去っていった。バッグが揺れて、彼が降りるとタイミングを見計らったかのように扉が閉まる。
駅はゆっくりと離れていき、直ぐに見えなくなっていった。
「……あいつ紳士だったんだな、伊賀」
「なー、びっくりだわ、ガチャさんのくせに」
「あ、そういえば伊賀君って名前私聞きそびれたかも」
は、と思い出したように呟いたに桜庭と上原は目を合わせ、にやりと笑うと「あいつはガチャでいいよ、ガチャピンのガチャ」と教え「次あった時はガチャさんって呼んでやるといいよ」と言う。
そもそも桜庭が声をかけた段階でガチャピンというなと伊賀は言っていたのだが、その後の会話のインパクトが強かったせいか、の記憶からはそれは見事に削げ落ちて「そうなんだー」と妙に納得した声をあげてしまう。
……次に彼女が彼に会ったとき、二人に教わったとおり「ガチャさん」と呼んだ結果、上原と桜庭にローキックをかます伊賀の姿があったのは言うまでもない。
そんな、暑い暑い夏の日の話。
2009.10.29