ALPHA
「だからWow……」
有名なアニメソングのフレーズをギターで掻き鳴らし歌うオレンジ髪の少年の存在にが気付いたのは部屋の片付けをしている夕方五時半のことだ。
レコーディングで普段から苦手な歌を「まず音符通りに歌おうか」という基礎中の基礎を叩きこまれ、腹式呼吸の練習をしていた。そもそもよくもまぁそんな自分がこの倍率が尋常ではない学園に入れたものだと他人ごとになりつつ思う。の存在に気づかないのか、無限大な夢のあとのーと気の抜けたサビ部分を男は大熱唱を続ける。
ペットボトルに入った水に口をつけながら、は彼の歌に耳を傾ける。フレーズ一つ一つを大事にして、むちゃくちゃにがむしゃらに歌っているような歌だった。
きっとここにSクラスのエリート集団がいたら「ここは駄目だ」「あそこは駄目だ」と言い合うのだろうが、幸いなことにここにはしかいない。彼の歌に耳を傾けていると、部屋の扉が開く音がする。ひょこ、と現れたのは今目下下で歌っている少年よりは薄いオレンジ色の髪をした少女。の存在を確認すると慌てて頭を下げる。それに応じても頭を下げた。
このご時世に随分と古風な少女である。だが、は彼女が嫌いではなかった。
彼女のキラキラするような音楽センスは音楽というものが苦手なでも分かるほど輝いていて、そして引きこませる。この少女は音楽が好きなのだろうな、とも同時に思わせるほどに。
「くん」
「七海、あいつ知ってる?」
一十木音也くん、Aクラスの、一ノ瀬さんの同室の方です。七海は彼をそう紹介した。窓の手すりに身を預け、彼の歌をゆっくり目を閉じは聞き入る。
じゃかじゃかとギターコードを抑えて音が変わる。明るいポップな曲だ。話したことはないが彼そのものを表しているような、そんな印象を与える。誰かの別の曲。けれど、彼に似合っていた。
曲が最後まで終わると七海はパチパチ、と彼に賞賛の拍手を送った。拍手がするとは思っていなかったのだろう、一十木はくるくるとあちこちを見渡し、最後に上に気づいて「うわっ」と後退りする。
「すっごい素敵でした、一十木くん!」
身を乗り出して、嬉々として言う七海はキラキラとした目をしている。夕焼けに照らされているからか分からないが少しばかり顔が赤らんでいるようにも見える。音楽バカだ、と思わずは思うが夕焼け時に一十木の音楽はとてもあっていた。
オレンジ色の髪。はちみつ色のギター。どちらも夕焼け色に染め上げて、歌い続ける彼に「何故彼がAクラスなのだろう」とは疑問に思いながら、七海につられるように拍手を送る。技術の面でなら確かに一ノ瀬には勝てないだろうが、人を引きつける力があることは確かだ。
彼はが居たことに今気付いたのか「あ」と声を漏らす。実質話したことなどないので、よほど意外だったのだろう。姿勢を正して「こんにちは」と頭を下げる一十木にはぺこりと挨拶を返す。
「歌、好きなの?」
「え」
「いや、楽しそうに歌うなって」
好きなの、と疑問符も何もつけないようなの言葉に音也はあっさりと「好きだよ」と返した。夕焼けのようにキラキラした笑顔だ。七海もこういう子とくめたら楽しかっただろうに。ちらりと音也を見つめる少女に目をおくる。
彼女は楽譜を握りしめて「私もがんばります」とニコニコと笑顔で言うのでは小さくため息をつく。ポケットの中に入ったガムを音也に投げつけると「やる」とだけ言い放った。
「え、なにこれ」
「げーのーじんは、歯が命ー」
随分と古いキャッチフレーズだったが、気に入っているフレーズだ。箱ごと投げつけたので音也はあっさりとそれをキャッチし、貰っていいのかとガムに視線を行ったり来たりさせている。
まるで小動物のようだ。
は内心しみじみ女性の友人たちだが「かーわいいー」と男性アイドルに対して言っていたのを思い出す。そうか、これが「可愛い」か。
「いーよ、あげる。聞かせてもらったお礼」
「おー、ありがと!」
一瞬、彼は時間が止まったように硬直した。
何故彼は自分の名前を知っているのだろう。え、と口の形ができたまま呆然と彼を見据えた。にこにこと彼は笑い、の横にいる少女もまたにっこりと笑顔を作っている。
わかっていないのは、ばかりだ。
「…………なんでお前、俺のこと知ってんの?」
「だって、演劇の授業のとき頑張ってたじゃん」
早々にガムを食べ始める音也にそうだっただろうかと思わず眉根を引き寄せる。七海はふわふわと笑いながら「くん、演技お上手ですもんね」と嫌味なく言う。
唐突の褒め言葉に慣れていないせいか、え、だのあ、だの気の抜けた声を上げた後、「どーも」と照れくさそうには顔を指でかきながら言う。でも歌ヘタだよね、とざっくりとした音也の切返しに少し……否、かなり凹んだのはだけの秘密だ。
「……俺ももうちょっとがんばろうかなぁ」
「はい!頑張りましょう!」
「俺も手伝うからさ、頑張ろうよ」
にこにこと悪意なく言う二人についには押し切られ、は首を縦に振ってしまう。その日から、音也と春歌との、よく分からないトリオで始まる音楽レッスンが放課後にスタートした。
ふんわりとした笑顔を浮かべる春歌の存外高いハードルに男二人が息の根を上げそうになりながらついていく姿は何とも言えぬシュールさで、練習が始まった次の日にははニヤニヤとした笑顔を浮かべた同級生の青年にからかわれることになる。