02. 二人だけの秘密
遣らずの雨はrecitative
「ちょ、え、なんでここにいるの!?」
土砂降りの中中庭に必死に走り、雨宿りに音也が逃げこむと、そこにはすでに先客がいた。
春歌が飼っている猫と横に並び、今にも夢のなかに潜り込んでいきそうなほど船を漕いでいる相棒に音也は慌てて自分がタオルを持っていないか必死にまさぐったが、彼の手持ちは残念なことにサッカーですでに使った汗臭いタオルぐらいだ。
は音也の声に顔を上げたが随分と眠たそうに目を細めて「おとやだ」と言ったきり再び猫と並んでぼんやり遠くを見てしまう。
まるで猫が二匹いるようだ。随分とぼんやりとして、ああもう、と音也は頭を内心抱えたが「タオル俺のくさいけど!」と頭を吹こうとする……が、彼女は音也と異なり全くと言っていいほど濡れていなかった。ぼんやりと座ってどのくらいそこにいたのだろう。彼女の足元には楽譜と、ボールペンのインクが切れたのかマジックペンが転がっている。まさかこれで楽譜を書いたのだろうか、ひんやりと音也は背筋が寒くなったが、彼女の楽譜を一枚拾えばよく音也が落書きに使っているおんぷ君が書かれている。
「……結構うまいね、」
「音也は、なんでここにいるの?」
「あーあはははは…実は雨降ってきちゃってさーダッシュで帰ってきたところ」
でも濡れちゃったけどね。びしゃびしゃになった靴を脱ぐと水の特有な音が耳に響く。の右隣で雨宿りをしていた黒猫がちいさくにゃあ、と鳴いた。あまりどうやら音也のことを歓迎していないらしい。
おそらくは無言で彼の側にいたのだろう。クップルはあまり騒がしいのは好ましくないのか、いきなり騒がしくなって欝陶しいように丸まっていた体をぴん、と今度は伸ばす。
「あーあー、靴んなか大洪水」
「……新聞紙帰ったら丸めていれておくとイイよ」
そんな家庭の豆知識を教えながらは散らばりきった楽譜を適当に拾って、その一小節を小さな声で歌う。雨にあう、しっとりとしたバラードに近い曲だ。
まだ、曲名も、歌詞も、何も無い。ただの「音の集合体」だ。
猫はの音を聞いていて、途中が歌うのをやめると雨の中走りだした。まるで最初から「歌」だけを聞きたかったかのように。
「いっちゃった」
「七海の猫だよね、あいつ。……大丈夫じゃない?」
「……にぼし、あげたかったのに」
雨の音が無言の中で響く。音也はの隣にいたまま、じっと動かない。は持っていた楽譜を整えることもせず雨音に耳を傾けていた。
時折、どこかからピアノの音が聞こえてくる。誰かがピアノを弾いているのだろうか。常にこの学校は音楽にあふれていて、雨でかき消されても音の欠片はあちらこちらに散らばっている。
「」
「ん」
ふ、と音也は何かに気付いたようにが書いた楽譜の中で自分が持っていた一枚に目を落とし、次にの名前を呼んだ。
それまで妙な沈黙が訪れていたが、音也は嬉しそうにはにかんで、の手をぎゅう、と痛いほどに握りしめた。彼の頭からはまだぽたぽたと水滴が落ちていて、ハンカチで拭っても拭っても、元々が湿気ていたので意味がなくなっている。
そんなこと、まるで無視して音也は言う。
この歌、俺に頂戴。と。
「なんで?」
「俺、これ歌いたい!凄い好きだ!だめ?」
「……これ、コンペ用に出すつもりだったんだけど」
時折作曲コースはコンペディションがあり、そこからアイドルだけではなくミュージシャンやドラマ・アニメ等のBGMとして企業に売り込むことも可能だという。
元々は職人気質でサウンド・トラックのほうが得意は承知のうえだ。音也は「じゃあ、俺の声をデモテープにして送ってよ」とそれでも食いついてくる。は驚き、「そんなにこの曲気に入ったの?」と首をかしげた。
彼女の問に、音也の返答は愚問以外の何者でもなかった。
雨の中、いきなり雨が病んで差し込んだ太陽のような笑顔で「もちろん」と笑う。アイドルのたまごに相応しい笑顔だ。
「――わかった」
「!」
「でも、音也には音也のための曲をちゃんと作る。……これは、だめ」
「……どうしても?」
首をかしげた音也に、は呆れた溜息をつく。どれだけ粘るつもりだろうか。
まるで弟のようだ。ころころ表情が変わる。動物で表現するなら間違いなく中型犬あたりだろう。
「――いつか、音也がデビューして、この曲がコンペに通っても通らなくても歌いたい、って思ってくれたら、いいよ」
「! やる!」
じゃあ約束。がそっと拳を付きだすと、おう、と音也は笑い同じように拳を作り、こつん、とぶつけ合った。
雨はまだ二人を帰さないように静かに降り続けていた。
※ recitative:オペラ、オラトリオなどで話すような歌い方