「なんっ、で私が介抱しなきゃいけないんですか信じられない」
酔いつぶれている龍馬が度々吐きそうになるせいか水と、ついでに履いても大丈夫なように桶、額に当てるための冷水と手ぬぐい。
額に思い切り強めに手ぬぐいを押し付けると、蛙が押しつぶされたようなぐぇ、という声を上げてきた。
「もう、本当、何やってるんですか、あなたは!」
彼女の小言は終わらない。酒瓶は彼方此方に転がっているし、酔いつぶれて帰っていく男たちを見送ったのもだし、今こうしてごろりと倒れている龍馬を介抱しているのもである。
私は貴方の細君になった覚えは微塵もないですし、こういうのごめんなんですけど!と文句を言うが龍馬は上の空だ。
寧ろ聞こえてなど居ないだろう。聞こえていても頭に響くということが優先できっとの言葉を理解はしていない。
はあ、とため息を付いて重い腰を上げて隣の散乱した部屋を片付けにいこうとすると、、と龍馬の掠れた声が聞こえてくる。
「……なんですか?」
「…………」
彼の言葉はかすれて、よく聞き取れない。耳を済ませれば、なんとも言えぬ言葉が聞こえてくる。
すまない、なのか有難う、なにかも分からないほどの、小さな声。
すまない、ならぶん殴ってやろう。
有難う、なら軽くはたいてやろう。
「……元気で、な」
少し、龍馬が泣いているのではないかと思えた。
心配してくれているのだろうか。笑いが妙にこみ上げてきて、けれどどこか泣きたくなっては瞼を強く閉じた。
満足なんかしてるわけないじゃない。理解してても気持ちが追いついているわけ無いじゃない。
私が今までどうしていたのか考えれば、貴方の側に居たのだから、これからもいたかったに、決まってるじゃない。
吐き出したい気持ちを押しとどめ、は立ち上がった。
「馬鹿言ってないで下さい」
手ぬぐいを外して、もう一度冷水に浸し、押し付ける。
つめてえ、とちいさな悲鳴が聞こえてきたが、それも無視だ。
鼻をすする声が聞こえてなんかいないだろうか。
我慢しているわけじゃない。自分で折り合いをつけたはずなのだ。だから、後悔していない。何度もは自分に言い聞かせて、呼吸を一つ。
「私は、龍馬さんの目としてこの世界で見続けていくって決めたんですよ」
それは、恋心では出来ないことなのだから、自分で選んだのだ。
叶わない恋心だったら、それを捨ててその代わりにある「相棒」であり「同志」という気持ちを優先させようと。それが彼に出来る恩返しだと決めた。
今更だ。
もう彼は神子と共に去っていく。その思いをは伝えようとは思わない。
「……この勇気は、ずっと龍馬さんといて、貰ったものなんですからね」
この世界に生き残ると決めた勇気は、あの世界にいこうとする龍馬の勇気と似ている。
交錯して変わっていく。だから、いいのだ。細い細い糸はと龍馬を結びつける。それで、彼女にとっては十分だ。
ゆきとなら、彼は幸せだろう。馬鹿みたいに鼻の下を伸ばして、馬鹿みたいに嬉しそうに笑って、未来に進んでいくことも眼に見えていて、想像したら可笑しかった。
「さようなら、ありがとう、龍馬さん。大好きでした、ほんとに」
あなたがくれたものを私は抱いて、みんなと生きていく。
指先がそっと龍馬から外れた。
彼は矢張り不快と眠りの仲でさまよっているようで、の言葉など聞こえていない。こういう時にしか言えない自分をヘタレ以外の何者でもないが、しょうがないとは諦めて笑った。
それが、自分だ。そして、この関係こそがきっと自分と坂本龍馬の関係を説明するのにふさわしい。
「ゆきにも水用意しなきゃ。行ってきますね」
そういって慌ただしく言い残し音もなく去っていったの背中を龍馬は薄ぼんやりと見つめながら、ため息をつく。
体を起こすと、随分と重たくてガンガンと揺れる。
眠気もあるがそれ以上に二日酔いが覚めてくれやしない。彼女の背中を見送りながらぼんやりと、呟く。
「お前さんだって、俺に沢山くれただろ」
礼を言うのはこっちの方だ。呟く度に頭が痛い。
揺れる視界の中で、唯一の言った言葉が耳に残る。
「お前さんは、自慢の俺の妹だ」
元気で。息災で、生きろ。
笑って、そうして彼はもう一度まぶたを閉じる。
彼女の「大好き」がどういう意味だったのかは分からないままだったが――目が覚めたなら、この世界を飛び出す時だ。愛しい人と共に。
それが妙にうれしくて、新たな世界が楽しみで、彼は少し笑いながら、眠りの中へ誘われていった。
――最後の最後に寝坊をかまし、に叩き起こされ、先日のやり取りなどなかったかのようにゆきと慌ただしく去っていく龍馬の姿が、そこにはあった。