10.戀模様ハ何色カ【前編】
日比谷公園を真っ直ぐに歩きながら、は自転車を漕いでいた。
大きな車輪を回して、ハンドルを握りギイコ、ギイコとペダルを踏みしめると穏やかな日差しが彼女を照らす。
いい天気だ。気分もいい。
色々なことを考えていたことを、1つだけでも変化したことに安堵したのもあるのだろう。
カチューシャの唄を口ずさみながら、はペダルを踏み込む。
そろそろ正午を知らせる空砲が響き渡る頃だ。毎日毎日懲りないもので、陸軍の昼を知らせる大砲の音。くるりと彼女が見渡すと木々の合間から見覚えのある制服が目に入る。
ああ、あれは、大日本帝国陸軍の制服だ。見覚えのあるその制服に思わずブレーキを踏み、繁々と方向の向こうを見つめると小隊の人間が何かを言い合い、また行き来している。
自転車をひき、直ぐに戻ろうと迂回するように押していくと、彼女の袖がくい、と何かに引っかかる。
立ち止まると枝に着物が引っ掛かってしまった。手を伸ばしどうにか着物を外そうとするが予想以上に絡まっている。顔を顰めて指先をどうにか外そうと片手を外せば自転車が倒れてしまう。
眉をしかめて、ぐいと離そうとすれば布の破ける独特の音が聞こえてきそうで動けそうにもない。
こつん、こつん。
ブーツに小石がぶつかり、足の踏み場に失敗した。
ぐるりと反転したまま、彼女はそのまま落下する。
ちりりと膝が痛んだ。変な形で着地してしまったからだろうか。顔をしかめながらどうにか立ち上がろうとすると激痛が走りはそのまま座り込んでしまう。
袖を確認すれば、折角の袖は破れてしまっている。気に入っている色だっただけに残念だ。
思い切りため息を付いて足をほうり投げると、草にあたって音がする。肌触りはそれ程良くはなかったが曲げている時よりも痛みはない。が座った状態で空を見あげれば随分と空は青く、澄んでいた。馬鹿みたいに口を開けていたのだろう、気配に彼女は全く気づけなかった。
ぱきり。
枝が折れる音がして漸く彼女は視線をもとに戻せば、直ぐ近くの草むらで彼女を凝視している姿があった。
その久しぶりに見る表情に、は姿勢を気づけば正す。相変わらずの仏頂面は何一つとしてかわりなく、三十路にしては少々幼いながらも胸の勲章たちが太陽に反射しぴかぴか光沢を放つ。
二人はそのまま何かを言い出すわけでもなく相互に見据えあった。睨み合ったといっても過言ではないだろう。
はこの醜態を見せてしまったことに随分と困惑し、蛇に睨まれた蛙のごとく硬直が解かれない。
どん、と空砲の音が鳴り響く。
はびくりと体を揺らし、勇は音のなる方向へ流し目で向ける。昼を知らせる空砲が鳴り響き、彼の隊の人間が忙しなく走ってきて「宮ノ杜大佐」と彼を呼ぶ後に敬礼を一つ。業務終了の旨を知らせると勇は淡々と「では、撤収後各自休憩時間とする」と指示を残す。
返事が短く行われ、慌ただしく彼らはいなくなっていき、先程と同じくしん、と物音がせずに沈黙が訪れる。
「……いつまでその格好でいるつもりだ」
先に口を割ったのは勇だ。仏頂面で、睨みつけるようにを見据えるものだから彼女は萎縮した。
普段であれば感情が先走るままに口も動いていたが、なにぶん痛みが強くて考えも口もまとまりはしない。いつもよりも大人しいに違和感を感じたのか、勇は片眉を上げ、ゆっくりと近づいてくる。
顔を見合わせるのに丁度いい距離で彼は足を止めた。
自然と見下す形になるのだが、足を伸ばし両手を重ねて見上げてくるは妙に弱々しい。
妙な違和感から、彼女の横に無残にも転がっている自転車。
「どこか打ったか」
は顔を上げて「否」とはっきりと言い放った。
ゆっくりと軸足をかばうように立ち上がろうとするが鈍痛から自然と顔を顰め、彼女は小さな声を漏らす。だが彼に弱さを見せたくないという小さな矜持か、歯を食いしめて立ち上がった。随分と覚束無い足取りのせいか、より勇の眉間の皺が色濃くなっていく。
「……」
「はい」
「足を打ったのか」
もう一度、彼は尋ねた。が頷くと「ドジなやつだ」と勇は溜息を落とす。彼女の袖は綺麗に割かれ、ちらちらと腕が見え隠れしていた。
は暫くの沈黙の後、ゆっくりと首を縦に振る。痛みに耐え切れないのだろう、苦々し気な顔からはいろいろな感情が読み取れる。
「歩けるか」
「……痛みが引くまで、ここにいるから大丈夫です。大佐はお昼休みなのでしょう、そちらを優先してください」
大丈夫です。問題はありません。
足をかばいながらゆっくり、自転車を持ち上げるとは勇を見据えた。弱いところは見られていないだろうか、気づかれていないだろうか。内心の冷や汗を拭いながら毅然とした態度で見据えていると、彼は今にも激昂を上げそうな表情で、の腕を掴む。
「貴様のことなど、分からん俺ではない」
「痛っ……」
「少々支えがなくなってこの程度ではたかが識れておろうが。……貴様、この状況で家まで帰ると?莫迦か」
正論の嵐にぐうの音すら出ない。
は大層困惑し「でも」と何かを言おうとするが、結局顔を俯かせてじっと足元を見つめている。勇はの視線の先を見つめながらも、沈黙を守ろうとするの腕を離そうとはしない。
気まずい空気が彼らを再び包みこむ。
「帰るぞ」
「ちょっと大佐、待って、痛っ……」
歩こうとすれば足元がふらつき、彼女は倒れ込みそうになる。
そのまま彼女は座り込み顔を歪めると勇は視線を合わせるようにしゃがみ、彼女の袴をぺらりと捲った。
唐突すぎる出来事と外気に晒されたことへの驚きからが声を上げると「うるさい」と一蹴される。
彼女が打ったところはすでに赤くなっている。打ち身がひどいのだろう、顔を顰めたは草むらに伸ばした手をぎゅうと握りしめた。勇は直ぐに捲った袴をもとに戻すと膝をついて彼女に背を向けた。
「乗れ」
「は?」
彼はの腕を引っ張り、背中に無理やりおぶり何事も無く立ち上がった。
からすれば何が起きたのか、いきなり視界が高くなったことへ驚きを隠せず、わあ、と妙な声を上げてしまう。
目の前には黒い髪と、日焼けした首筋に、自然と胸が高鳴ってしょうがない。
「大佐」
「歩けんのであれば、から車を出すがよい。電話ならば戻ればある」
「いえ、だから」
「自転車は置いていくがいい。これに懲りたら自転車なんぞ女が乗るものではないと……」
「大佐!」
人の話を聞かない勇に思わず彼女は彼の肩を叩く。何事だと振り返られるその双眼はを捉え、いつもと何一つとして変わらない。
先日の出来事も、今の現状も、何も変わらない。
そんな勇に、どうしたらいいのか分からずは手を下ろして「待って」ともう一度彼に言う。
落ち着けない。頭の中での考えが旋回して一つ一つへの整理にすら行き着かないのだ。それもこれも予想外のことをしでかす勇のせいだ。
「……送ってくれるんですか?」
「軍の場所までだ」
「……あの、ありがとうございます」
出てきた言葉はそれぐらいで、はみるみるうちに大人しくなる。
勇はさっさと自転車を片手で持ち上げると片腕でを支え、もう片手で自転車を押す。器用なその行動と、同時に日比谷公園という大衆の目があるところでのこういった行為はどうにも彼女の羞恥心を煽った。
時折聞こえてくる「あの二人」という単語「女学生なのに」という声。
全てが煩わしく、彼女は呼吸を止める。はやく時間がすぎればいい。そう心から願った。
「」
不意に、勇が声をかけた。は顔を上げ「はい」と掻き消えそうな声で返事をすると前を向いたまま勇は此処最近会った出来事を連々と話した。
「御杜に手紙の相談をしたと聞いた」
「……御杜君口軽いですね」
次から相談するのやめよう。心の中で誓いながら勇の言葉を待つ。が抱えていた問題の「エス」に関してなど勇は絶対分かりはしないだろう。何故なら流行の先端に行く「女学生」のですら友人たちから取り残されており、憧憬と尊敬の目で見られていたとしても分からなかったのだから軍人である勇なら尚更だ。
勇は「分からん」とだけ淡々と返す。ああ、やっぱり。妙には安堵して息をつく。
「手紙のやり取りはどうしたのだ」
「……まぁ、何とか」
「女が女と好きあうのか」
「私の返事が最初から肯定であることを前提で話さないで」
丁重にお断りしました。
その言葉に彼は足を止めて、首から上を動かしに振り返る。いつもより視線が近いせいもあってか、音を立てて目と目がぶつかる。思わず彼女は視線を背ける。
「お友達になっただけで、姉妹にはなっていません。そういの、よくわからないから」
彼はの話を珍しく黙って聞いていただけで、やがて「そうか」と相槌を交わした後にまた歩き始めた。
暫しの沈黙が再び彼らを包む。何度目の沈黙だろう。
ただ、彼が歩く度に振動が届いて、わずかに揺れる黒い髪に目がいく。
「巽との婚約が進んでいるらしいな」
「……え」
彼は歩きながら言う。
巽と話を先日したことを言えば驚いたのはだ。どんな角度から見ても彼らが談笑をする姿が思いつかない。勇は根っからの軍人気質であり、巽は柔和なそれこそ軍人には向いていない人間だ。勇は彼女の視線に気づきながら淡々と「あの男は貴様を評価しているようだな」と述べた。
その物言いはどこか、遠い。
ざくり、と何かが切れる音がした。足の痛みとは違う胸の痛みに顔をしかめるが、前を向いている勇にはそんなことも伝わらない。
ただ、彼は淡々と話をしている。巽と、の。
それがどうにも心苦しくて、何故かと考えてみる。理由は、多分、彼女の中ではもうとっくに見つけているものだ。
やがて、目的地に到着し勇は彼女を器用に下ろし、漸く彼女の顔を見ると、手を思わず止めてしまう。
「……」
「……え」
「何故泣く」
「……え?」
頬に手を当てれば、涙は一滴たりとも流れてはいなかった。
泣いていませんよ、と彼女が顔を上げれば手袋越しで勇は涙を拭ってやった。こぼれ落ちる寸前のたまった涙は勇の白い手袋にしずかに染みを作る。
「痛むのか」
優しい物言いに、は余計に泣きたくなり逃げ出したくなった。
これじゃあまるで、いや、間違いなく。
「大佐を慕ってる、みたいじゃない」
こぼれ落ちた言葉は、勇を固まらせるのには十分だった。
2012.03.08
大きな車輪を回して、ハンドルを握りギイコ、ギイコとペダルを踏みしめると穏やかな日差しが彼女を照らす。
いい天気だ。気分もいい。
色々なことを考えていたことを、1つだけでも変化したことに安堵したのもあるのだろう。
カチューシャの唄を口ずさみながら、はペダルを踏み込む。
そろそろ正午を知らせる空砲が響き渡る頃だ。毎日毎日懲りないもので、陸軍の昼を知らせる大砲の音。くるりと彼女が見渡すと木々の合間から見覚えのある制服が目に入る。
ああ、あれは、大日本帝国陸軍の制服だ。見覚えのあるその制服に思わずブレーキを踏み、繁々と方向の向こうを見つめると小隊の人間が何かを言い合い、また行き来している。
自転車をひき、直ぐに戻ろうと迂回するように押していくと、彼女の袖がくい、と何かに引っかかる。
立ち止まると枝に着物が引っ掛かってしまった。手を伸ばしどうにか着物を外そうとするが予想以上に絡まっている。顔を顰めて指先をどうにか外そうと片手を外せば自転車が倒れてしまう。
眉をしかめて、ぐいと離そうとすれば布の破ける独特の音が聞こえてきそうで動けそうにもない。
こつん、こつん。
ブーツに小石がぶつかり、足の踏み場に失敗した。
ぐるりと反転したまま、彼女はそのまま落下する。
ちりりと膝が痛んだ。変な形で着地してしまったからだろうか。顔をしかめながらどうにか立ち上がろうとすると激痛が走りはそのまま座り込んでしまう。
袖を確認すれば、折角の袖は破れてしまっている。気に入っている色だっただけに残念だ。
思い切りため息を付いて足をほうり投げると、草にあたって音がする。肌触りはそれ程良くはなかったが曲げている時よりも痛みはない。が座った状態で空を見あげれば随分と空は青く、澄んでいた。馬鹿みたいに口を開けていたのだろう、気配に彼女は全く気づけなかった。
ぱきり。
枝が折れる音がして漸く彼女は視線をもとに戻せば、直ぐ近くの草むらで彼女を凝視している姿があった。
その久しぶりに見る表情に、は姿勢を気づけば正す。相変わらずの仏頂面は何一つとしてかわりなく、三十路にしては少々幼いながらも胸の勲章たちが太陽に反射しぴかぴか光沢を放つ。
二人はそのまま何かを言い出すわけでもなく相互に見据えあった。睨み合ったといっても過言ではないだろう。
はこの醜態を見せてしまったことに随分と困惑し、蛇に睨まれた蛙のごとく硬直が解かれない。
どん、と空砲の音が鳴り響く。
はびくりと体を揺らし、勇は音のなる方向へ流し目で向ける。昼を知らせる空砲が鳴り響き、彼の隊の人間が忙しなく走ってきて「宮ノ杜大佐」と彼を呼ぶ後に敬礼を一つ。業務終了の旨を知らせると勇は淡々と「では、撤収後各自休憩時間とする」と指示を残す。
返事が短く行われ、慌ただしく彼らはいなくなっていき、先程と同じくしん、と物音がせずに沈黙が訪れる。
「……いつまでその格好でいるつもりだ」
先に口を割ったのは勇だ。仏頂面で、睨みつけるようにを見据えるものだから彼女は萎縮した。
普段であれば感情が先走るままに口も動いていたが、なにぶん痛みが強くて考えも口もまとまりはしない。いつもよりも大人しいに違和感を感じたのか、勇は片眉を上げ、ゆっくりと近づいてくる。
顔を見合わせるのに丁度いい距離で彼は足を止めた。
自然と見下す形になるのだが、足を伸ばし両手を重ねて見上げてくるは妙に弱々しい。
妙な違和感から、彼女の横に無残にも転がっている自転車。
「どこか打ったか」
は顔を上げて「否」とはっきりと言い放った。
ゆっくりと軸足をかばうように立ち上がろうとするが鈍痛から自然と顔を顰め、彼女は小さな声を漏らす。だが彼に弱さを見せたくないという小さな矜持か、歯を食いしめて立ち上がった。随分と覚束無い足取りのせいか、より勇の眉間の皺が色濃くなっていく。
「……」
「はい」
「足を打ったのか」
もう一度、彼は尋ねた。が頷くと「ドジなやつだ」と勇は溜息を落とす。彼女の袖は綺麗に割かれ、ちらちらと腕が見え隠れしていた。
は暫くの沈黙の後、ゆっくりと首を縦に振る。痛みに耐え切れないのだろう、苦々し気な顔からはいろいろな感情が読み取れる。
「歩けるか」
「……痛みが引くまで、ここにいるから大丈夫です。大佐はお昼休みなのでしょう、そちらを優先してください」
大丈夫です。問題はありません。
足をかばいながらゆっくり、自転車を持ち上げるとは勇を見据えた。弱いところは見られていないだろうか、気づかれていないだろうか。内心の冷や汗を拭いながら毅然とした態度で見据えていると、彼は今にも激昂を上げそうな表情で、の腕を掴む。
「貴様のことなど、分からん俺ではない」
「痛っ……」
「少々支えがなくなってこの程度ではたかが識れておろうが。……貴様、この状況で家まで帰ると?莫迦か」
正論の嵐にぐうの音すら出ない。
は大層困惑し「でも」と何かを言おうとするが、結局顔を俯かせてじっと足元を見つめている。勇はの視線の先を見つめながらも、沈黙を守ろうとするの腕を離そうとはしない。
気まずい空気が彼らを再び包みこむ。
「帰るぞ」
「ちょっと大佐、待って、痛っ……」
歩こうとすれば足元がふらつき、彼女は倒れ込みそうになる。
そのまま彼女は座り込み顔を歪めると勇は視線を合わせるようにしゃがみ、彼女の袴をぺらりと捲った。
唐突すぎる出来事と外気に晒されたことへの驚きからが声を上げると「うるさい」と一蹴される。
彼女が打ったところはすでに赤くなっている。打ち身がひどいのだろう、顔を顰めたは草むらに伸ばした手をぎゅうと握りしめた。勇は直ぐに捲った袴をもとに戻すと膝をついて彼女に背を向けた。
「乗れ」
「は?」
彼はの腕を引っ張り、背中に無理やりおぶり何事も無く立ち上がった。
からすれば何が起きたのか、いきなり視界が高くなったことへ驚きを隠せず、わあ、と妙な声を上げてしまう。
目の前には黒い髪と、日焼けした首筋に、自然と胸が高鳴ってしょうがない。
「大佐」
「歩けんのであれば、から車を出すがよい。電話ならば戻ればある」
「いえ、だから」
「自転車は置いていくがいい。これに懲りたら自転車なんぞ女が乗るものではないと……」
「大佐!」
人の話を聞かない勇に思わず彼女は彼の肩を叩く。何事だと振り返られるその双眼はを捉え、いつもと何一つとして変わらない。
先日の出来事も、今の現状も、何も変わらない。
そんな勇に、どうしたらいいのか分からずは手を下ろして「待って」ともう一度彼に言う。
落ち着けない。頭の中での考えが旋回して一つ一つへの整理にすら行き着かないのだ。それもこれも予想外のことをしでかす勇のせいだ。
「……送ってくれるんですか?」
「軍の場所までだ」
「……あの、ありがとうございます」
出てきた言葉はそれぐらいで、はみるみるうちに大人しくなる。
勇はさっさと自転車を片手で持ち上げると片腕でを支え、もう片手で自転車を押す。器用なその行動と、同時に日比谷公園という大衆の目があるところでのこういった行為はどうにも彼女の羞恥心を煽った。
時折聞こえてくる「あの二人」という単語「女学生なのに」という声。
全てが煩わしく、彼女は呼吸を止める。はやく時間がすぎればいい。そう心から願った。
「」
不意に、勇が声をかけた。は顔を上げ「はい」と掻き消えそうな声で返事をすると前を向いたまま勇は此処最近会った出来事を連々と話した。
「御杜に手紙の相談をしたと聞いた」
「……御杜君口軽いですね」
次から相談するのやめよう。心の中で誓いながら勇の言葉を待つ。が抱えていた問題の「エス」に関してなど勇は絶対分かりはしないだろう。何故なら流行の先端に行く「女学生」のですら友人たちから取り残されており、憧憬と尊敬の目で見られていたとしても分からなかったのだから軍人である勇なら尚更だ。
勇は「分からん」とだけ淡々と返す。ああ、やっぱり。妙には安堵して息をつく。
「手紙のやり取りはどうしたのだ」
「……まぁ、何とか」
「女が女と好きあうのか」
「私の返事が最初から肯定であることを前提で話さないで」
丁重にお断りしました。
その言葉に彼は足を止めて、首から上を動かしに振り返る。いつもより視線が近いせいもあってか、音を立てて目と目がぶつかる。思わず彼女は視線を背ける。
「お友達になっただけで、姉妹にはなっていません。そういの、よくわからないから」
彼はの話を珍しく黙って聞いていただけで、やがて「そうか」と相槌を交わした後にまた歩き始めた。
暫しの沈黙が再び彼らを包む。何度目の沈黙だろう。
ただ、彼が歩く度に振動が届いて、わずかに揺れる黒い髪に目がいく。
「巽との婚約が進んでいるらしいな」
「……え」
彼は歩きながら言う。
巽と話を先日したことを言えば驚いたのはだ。どんな角度から見ても彼らが談笑をする姿が思いつかない。勇は根っからの軍人気質であり、巽は柔和なそれこそ軍人には向いていない人間だ。勇は彼女の視線に気づきながら淡々と「あの男は貴様を評価しているようだな」と述べた。
その物言いはどこか、遠い。
ざくり、と何かが切れる音がした。足の痛みとは違う胸の痛みに顔をしかめるが、前を向いている勇にはそんなことも伝わらない。
ただ、彼は淡々と話をしている。巽と、の。
それがどうにも心苦しくて、何故かと考えてみる。理由は、多分、彼女の中ではもうとっくに見つけているものだ。
やがて、目的地に到着し勇は彼女を器用に下ろし、漸く彼女の顔を見ると、手を思わず止めてしまう。
「……」
「……え」
「何故泣く」
「……え?」
頬に手を当てれば、涙は一滴たりとも流れてはいなかった。
泣いていませんよ、と彼女が顔を上げれば手袋越しで勇は涙を拭ってやった。こぼれ落ちる寸前のたまった涙は勇の白い手袋にしずかに染みを作る。
「痛むのか」
優しい物言いに、は余計に泣きたくなり逃げ出したくなった。
これじゃあまるで、いや、間違いなく。
「大佐を慕ってる、みたいじゃない」
こぼれ落ちた言葉は、勇を固まらせるのには十分だった。
2012.03.08