腕を伸ばされて、そして掴まれる。
その単調かつありきたりな行為はを捕まえるのには十分であり、にこやかな笑顔を浮かべている喜助にただただ、は借りてきた猫のように礼儀正しく且つ縮こまることしか出来ない。
そもそも、喜助がこのような行為をするとは到底考えられず、は喜助に「何かありましたか」としか尋ねることしか出来なかった。
有田喜助という男は三十路の近い、大人でありながらもどこか子供じみた可愛らしさのある男である……とは解釈しているしあながち間違っていない。
貰い物の羊羹をそろって食べて、使用人に片付けさせた後ににこやかには喜助に結婚やら浮いた話はないのか、と尋ねたばかりのことだった。
それは単純な興味だったのかもしれない。
兄のように堅苦しくもなく、それでいて庶民でありながらも決してに対して臆することもない。
にとって、有田喜助という人間は所謂「初恋の人」といっても過言ではないだろう。それぐらいに彼は紳士であり、彼女にとっては魅力的に思えた。
妙に近い、それでいて真摯な瞳はを捉えて離さない。彼は何かを言いたそうにしながら、の腰へ手を回していた。その力はが想像の出来ないほどに強く、改めて彼が「男の人である」ということを認識させられた。
淡い初恋は、どこか兄を慕うようなそんなものに等しく、きっと喜助もそのことを知っているのだろう。楽しそうに笑っては様はいつも可愛らしいですね、と彼女をそれとなく褒めてくれていた。
兄のような、知人のような、それでいて、異なる空気を持った人。
「喜助さん?」
「……様は、俺をどこまでご存知で?」
「どこまでも何もないでしょう」
片口に彼の頭があるというこの状況はどこか扇情的で彼女の心をより煽っていく。
恋をしたのは一度だけ。後にも先にも、彼女の恋心はいつだって有田喜助のあの一度きりの淡い思慕だけだ。
そっと頭を撫でて、するりと喜助から離れた。
「あなたのことなど、私はきっと何一つわかり切れない」
それでも、私にとってあなたはきっと、特別な人なのよ。
小さく笑った彼女に、叶うわけもなく、呆れたように――けれど恥ずかしそうに喜助は耳の裏をかいた。
直球でそのように思慕を思いに形にするところはきっとならではのところなのだろう。彼女は両手を併せて「それでも」と付け加えた。
「あなたは私のことなど妹ぐらいにしか思っていないのでしょう?」
知ってるから尚腹が立つのよね。子供のように頬をふくらませたにまさか、と慌てて彼は立ち上がる。書生のようなその出で立ちはやはりどう見ても、三十路が近いとは思えないのだが……特別いう必要もなく、彼女はくすくすと笑いかけ、彼に抱きとめられたその手をぎゅうと握りしめた。
……笑える話だが、彼女の初恋は消滅することなく、かといって強く存在するわけでもなく、ここにただ鎮座し続けている。
「それでも、まぁいいかなと思う私も大概ですけどね」
お互い様ということで、ここはひとつ。
にこりと笑ってみせたに、喜助はどう反応をしたらいいのか分からずオロオロと彼女を見つめている。その狼狽している瞳はどこか頭をよしよしと撫でたくなる子犬のようにも思えたが……口に出してはあまりに可哀想なのでは口を閉ざす。水出しの茶は随分と彼女の身体を冷やしているにも関わらず、喜助と居ると自然と心の臓が高鳴りを抑えきれず、とくとく彼女を震わせている。
「あなたは、私のことをどれくらいご存知?」
「どれくらいって」
「そんなものでしょう、人って」
自分の心は自分でないとわかんないものだもの。
付け加えた後に、は喜助が困惑しているのをわかった上で言葉を連ねていく。
抱きとめられた身体は火照りきっている。けれど、言葉には出来ない。どこまで知っているのだろうか。僅かにまだ眠り続けている恋情のかけらたちのことを。
……また、言わせてもらえばいつまでも「子供」でもないことを。
「喜助って罪づくりな人ね」
「ええ!? なんでそうなるんですかい?!」
「教えない」
少しは悩めばいいわ。
楽しそうに笑った彼女に、喜助はそんなあと声を張り上げた。
……彼が向き合うには、どうにもこうにも時間がかかりそうなので、片目を瞑りながらは喜助の耳にそっと内緒話のように囁いた。
「あなたが30になる迄に、私を攫ってくれるのを待っているのよ、これでも」
……もれなく彼の顔が赤から青へ、そして真っ白になったのは言うまでもなく。
その状況を楽しそうに彼女はころころと笑って楽しんだ。
彼が駆け落ちを覚悟した上で彼女を迎えに来るのが先か。
彼女がいっそ開き直って彼を迎えに行くのが先か。
状況は、神のみぞ知る。