糸しい糸しいという心は戀い
てきぱきと白い靴下をまとめ、彼女は洗濯物をどんどんと干していく。
真っ白なベッド用のシーツをぱん、と強めに叩き皺を伸ばしていく。次から次へと動くその姿は随分と手際がいい。
「」
「あら、まぁ、正様。おはようございます、お早いですね」
「仕事がまだ残っていたからな」
「左様で御座いましたか」
真っ白のエプロンで手を拭い、正に向かい合い姿勢を伸ばしたは使用人頭の千富をどこか思い出させる。千富は代わる代わる母親が変わっていく自分たちの母親替わりであり、誰よりも容赦なく、厳しい。
使用人頭である以上必然的といえば必然的であり、質問を許しているのは千富だけであるので、が兎や角言うこともないが……どこか、なんとなく似ていると正は思う。
専属使用人という肩書きに憧れを抱くものは多い。特に10代のうちならば同年代ぐらいの女性を好き勝手出来ると言われれば欲目が掻き立てられるのも致し方がない。
だが、この邸の専属使用人というものはどこか現実離れをしており、六人もいる兄弟たちの誰も専属使用人をつけようとしない。
特に長兄で嫡男の正は三十路を過ぎており、婚期を確実に逃しているといっても過言ではないだろう。故に、彼に付きそう使用人というものは必然として必要になってくる。
けれども、婚期を逃しているのは宮ノ杜家の嫡男としての矜持だろうか。
そんな使用人たちの中のひっそりとした会話の中で「宮ノ杜家当主になるまでの結婚は有り得ない」と彼は以前にぽつりと呟いたものだ。
そのことを忘れろと命じられたものだが、生憎とは物覚えがいいもので、彼の言葉をずっと心の奥に潜ませている。表面上はいい「使用人」を演じながら。
「いつもお前がしているのか」
「若い子たちに任せるときも御座いますよ」
教えていかなければ続かないですから。淡々と述べたに正は目を細めた。
“若い子”なんて言葉を使うのは千富たちぐらいの年齢を重ねた人々だと思っていたがどうやらそうでもないらしい。
「今年ではいくつになる」
「もうすぐ25ですね」
「そうか」
彼女が初めて来た日のことは余りよく覚えていない。
彼女だけではない。多くの使用人が入っては出ていくこともあってか正は使用人全員を把握などしていないし、知っている使用人は母親の代わりに等しかった千富と、父の右腕である平助と、長く務めている使用人であるたえ、そして何かと問題を起こしているはる、指を折って数えていけば彼の覚えている人数のなんと少ないことか。
その中での、の存在はどこか朧げである。
にそれを伝えれば彼女は少し困ったように笑いながら「一使用人が来た日のことなど覚えていらっしゃらないのが当然だと思いますよ」と彼にそっと教えた。
彼女がいつ来たのか。年齢はいくつだったのか。そんなことすら覚えてはいない。
何故だろうか、正はとてもそれが残念なような気がした。
暖かい日差しが彼らを照らし、真っ白のシーツは風でぱたぱたと揺れる。
桜の花が散る中では正様、と彼の名前を呼んだ。
「まだお呼びでないのでしたら、お車をご用意いたしますが」
「ああ……そうであったな、すまんが頼む」
「畏まりました」
一礼をしてが去っていく。
すれ違う際に石鹸の香りがした。これは、シーツを干したからだろうか。自然と顔が緩んでいくことに正は気づき慌てて拳でぐい、と己の顔を拭った。
直ぐには戻ってきて、正様と彼の名前を呼ぶ。
「直ぐに車をご用意いたしますので、鞄をお持ちいたします」
「……」
「正様?」
彼の反応がないことへの違和感か、は顔を上げる。正は眼鏡を外し、目頭を抑えている。
ただ、ずっとそのまま沈黙をしている。はそのまま、正が気の済むまでと沈黙を守った。特に動きもせず、ただじいと、彼を見続けているとやがて彼は口を開き、少しばかり困惑したような声で「分かった」と言った。
車の運転手がことに気づいたのは先程で、が呼びに行くよりも先に慌てて車を走らせてきた。
申し訳ございません、と頭を下げる運転手に片手を上げ特別何かを言うわけでもなく彼は淡々と車の扉を開かせ、入ろうとする。視界の隅に、両手を揃えたの姿が見えた。彼女は相変わらずの表情で、腰から綺麗に曲げて一礼をしつつ「いってらっしゃいませ」と言葉を放つ。
至極自然に出た言葉だったのだろう。
正は一瞥くれながら「ああ」とそっと言い返し車に乗り込む。
やがて車が去っていくのを見送った後に、は体を起こした。
洗濯物はまだ沢山残っている。少しでも手を付けなくては。籠に放り込まれたシーツを一枚両手で拾い上げ竿に伸ばしながら引っ掛ける。
……ふわり、と石鹸の香りがした。
じっと彼女は真っ白のシーツに伸ばされた自分の手を見やる。水仕事に手馴れすぎてしまって、白魚の手とは世辞にも言えそうにはない手だ。
「……いけない、洗濯物が終わったら庭掃除があるのに」
不思議と視界が霞がかって、揺れる。
目を擦れば自然と涙が一滴、頬を伝った。慌てて掌で拭っても視界が涙で滲み続けている。
いけない。化粧もしているのに、こんな状態ではご兄弟の前に顔を出すことが出来ない。
ゆっくりと溜息をついては震える手をシャツに伸ばして、竿に丁寧にかける。
ああ。あの人はいつか、そう遠くない未来に結婚をするのだろう。
それはきっと、白魚の手を持った日にも焼けていない口紅の似合う女性だ。……少なからず、のような手を持つ人間ではないことは明白だ。
の胸がつんと張り詰めて、痛みがどんどんと増していく。見たこともない、出会ったこともない「誰か」に対して気持ちが渦を描き、空の青さと反比例したような暗い気持ちを抱かせる。
そして彼はきっと、が懸想をしていることも、見抜いているのだろう。時折見せる困惑した表情、困惑した瞳が彼女の足を竦ませる。
「……お側にいられるだけでいいはずでした」
それなのに、何度もこぼれ落ちそうになる言葉は、真綿で首を絞めるようにを苦しめる。
最後の一枚のシーツに、ぽたりと晴天から雫が落ちて染みが出来ていく。
「ごめんなさい」
彼女のつぶやきは誰に届くわけもなく、じんわりと静かに、ただ時だけが、刻まれる。
真っ白な洗濯物たちがぱたぱたと風に煽られて靡き、そっとシーツの影で彼女は自分の気持ちに蓋をするようにゆっくりと目を閉ざした。
確かに恋だった「主従関係で従の片思い5題」より「1.お側にいられるだけでいいはずでした」