蜀紅錦のきらびやかな色には何度か瞬きを繰り返し、やがて溜息を漏らした。側にいた進が少しばかり笑うものだから苦笑いを返すと、別の色に目を向ける。東京友禅、京友禅に加賀友禅。あちこちの綺羅びやかな柄と色の着物たちが店員の手から運び出される。
は困惑した顔のまま、どうしたらいいのか分からず進を見上げると、彼はいつも通りの柔らかい笑顔を浮かべるばかりだ。彼らしい、人の良い、穏やかな顔で。時折見せる仄暗い彼の表情を先日見てからか、どうにもの心には引っかかりがあったが、進が何も言わない以上、彼女も何も言えなかった。言い出せないのだから、仕方がない。
花柘榴色に梅模様の訪問着。ぱっと見ただけで華やかな彩りが目を引く。その場に置かれただけで一瞬は立ちくらみを覚えた。なんて鮮やかな色なのだろう。店員が此方は今流行りの色ですね、と並べていく。見るところによれば、おそらくは加賀友禅だろう。一瞬、息をするのも忘れては訪問着を見つめていた。
以前、進がに言った言葉である。
はそんな進に対して、母親への愛情を感じ取り、そしての友人を羨ましく思ったものである。
の友人は、進の許嫁だ。
羨ましい、と思い、同時に妬んだ。友人は進のことを「長男の正様のように実業家でもなく、次男の勇様のように凛々しくもない」と評価していたが、にはそれが余計に解せなかった。長男、次男と並べられた時の彼らをも舞踏会に呼び出され顔を出したこともある以上、見たことがある。
けれど、友人が言えば言うほど、には余計に進は魅力的に思えた。
言葉に出すことは許されないだろうし、することもないだろう。
は目を閉じた。色鮮やかな着物が残像になって、残る。
瞼をゆったりとこじ開ければ、進と目があった。いつもと変わらぬ表情であるのに、どこか物憂げな表情をした進に、は曖昧に笑顔を作る。引きつったりしていないだろうか、穏やかな笑顔を浮かべられているだろうかと考えては見るのだが進の表情が相変わらず晴れない以上どうやらの顔もひきつっているのが分かる。無理をして笑うものでもなかったか。
今更そんな後悔をしながらも、は諦めてしゃんと背を伸ばした。
進は菜の花色に絵羽付け下げ模様の反物を店員に出させている所で、は「まあ」とわずかに声を上げる。上等な生地のようだ。
肌触りも良い。
いかがでしょうか、と笑ってみせる店員に、進はにこやかに笑ってみせた。先ほどまでの影が一瞬だけ、身を潜める。
進はやさしい、とは改めて思う。変に気を使わせてしまっただろうか。
いくつもいくつも広げられた反物から、これと、あれと、と選んでいく姿を淡々とは見つめていた。
こんな人が旦那様であったのなら、人生の伴侶であったのならどれだけいいのだろう。夢のまた夢のようなことを想い、は心の中で頭を振った。なんて、浅ましい。言葉に出したのならどうなっていたのかと思うと背筋が凍る。
ご心配をかけてごめんなさい。そういうと、進の顔からすう、と笑顔が消えた。
彼の中に何があるのかは分からないが、時折そんな風に見せる進の顔を誰も知らないのではないだろうか、とどこかで思う。紳士で、優しくて、誰に対しても何に対しても平等である進。そこまで考えて、ははた、と現実に帰る。
その瞬間、笑いがこみ上げてきて仕方がない。口元が歪んでいく。
先程から百面相をするがやがて声を上げて笑ったせいか、進は目を点にして「え」と声をあげた。はそんな姿もおかしくて、箸が転げるだけでも今ならばもっと笑えるだろう。鈴のように笑い、可笑しさから目が霞んで涙がこぼれ落ちてくる。
美しく、麗しく、穏やかで、物静か、そんな人間、いるわけがありませんよね。
そっと彼女は歌うように彼に言う。妙に悟った言い方に、進は笑顔を作るわけでも怒るわけでも抑揚のない声で「そうですね」とだけ返す。
はひと通り笑った後に進の選んだ反物を店員にこれで、と言った後採寸に立ち上がった。取り残された進は彼女の背中を淡々と見送る。
別の店員がいそいそと反物を片付けようとするので、彼はそれを片手で引き止めた。
……何故、そうしたのかは分からなかったが、三着ほど選び、それをそのままのものとして作るように命じる。
やがて採寸が終わったのかゆったりとした足取りでが戻ってくると、彼はいつも通りの表情を浮かべるばかりだ。
にこやかに、穏やかに、は笑った。そして店を出ようと手を差し出すと、彼女は困惑したように笑ってみせて、ゆっくりと頭を振った。
その手を、結局彼女は取らないままゆっくりとした足取りで歩いて行く。その背中を見ながら、彼は沈黙し続ける。
さん、と呼べば彼女は振り返る。髪がしなやかに揺れて、その髪に手をそっと入れたくなる衝動に駆られながら、進はすこしばかり笑った。
は笑ってみせる。その笑い方は先程の歪な笑い方とは大分違った、随分と穏やかな笑い方だ。怖いかと尋ねたのは進だというのに、彼はの返事に驚き、声を漏らす。彼女は髪を左手で抑えながら足を止めて言う。
友人の夫となる人を怖いと思うわけがありませんよ、知っている方であるのなら尚更。
その言葉に傷ついたのは、間違いなくで、自分で言った言葉に彼女は大層後悔した。自分でも呆れたが、進は彼女の言葉に最後まで耳を傾け、そしてしばらくしてからゆったりと頷き返す。
綺麗で穏やかな人間など、いるわけがない。進の言葉には頷き返した。進は彼女と視線をあわせて、溜息をこぼす。
呆れたような、何とも言いがたいような、そんな表情だ。
やがて、ゆったりと「自分は大層な人間ではないんです」と苦く言う。その言葉を唯、じっとは受け止め続けた。優しくも、なんともない。兄弟たちの中でも普通の母親を持った、普通の人間。
先ほどと同じように、は繰り返した。彼女は優しくも何でもないといった進をそれでも矢張り、やさしいと思うが……いえばそれを進は頭を振って否定する。やさしくはない、それは、偽善であると繰り返して。
意味が分からない訳がなかった。ただ、は友人が「宮ノ杜進」の細君になることは有り得ない、ということだけを察知する。何故それを、友人であるに言ってしまったのか……ふと疑問をいだき、が尋ねれば、喉の奥をくつくつと震わせて進は少しばかり意地の悪い笑顔を浮かべた。
淡い憧れは音を立てて崩れ落ちたが、どこかは晴れやかな気持ちでいた。変に気を使われるよりも、余程いい……と思う自分は変わっているのだろうか。
進は努めて冷静な声で「頭の良い方だ」とに言いながら元の道へ視線を向け、一歩、二歩、歩き始める。
後ろ姿を見つめながら、は「矢張り、あなたは優しい方ですよ」と小さな声で呟いた。
緩やかに、ゆったりと二人の空間が埋まったのはそれから大分経ってからのことである。
2012.02.22
「美しく、麗しく、穏やかで、物静か、そんな人間、いるわけがありませんよね」
心随に:心のままに