初めて接吻というものをしたとき、どちらかというと「柔らかい」という何とも面白味もない感想を彼女は抱いた。
次に深い接吻をされた時は考えるよりも先にうねる感覚に背筋が凍りつき、立っていることすらままならなかった。行き場のない手と、掴まれた体により身動きがとれず、宙ぶらりんになる。
頭の中が、ぼうっとしていたことだけはより鮮明に覚えていた。
そして今、彼女は再びの選択肢を迫られており、硬直をしている。
唇を吸われ、思わず身動きを取るとやがて唇が離れた。視線を上げることも出来ず、呼吸を肩ですれば少しばかり楽しそうに目を細められ、羞恥心から引き締まった彼の胸に頭をぐい、と押し付けて顔を隠す。
「おい」
「……見ないで、恥ずかしい」
「……何を莫迦げたことを言う」
ぐい、と両手を引っ張られ、再び顔を無理矢理に上げさせられたので彼女は思わず視線を逸らした。
切れ長の双眸は相変わらずを見据えていて、背筋が凍る。何故こんなにも彼の瞳は熱っぽいのだろうか。普段の短気さからは想像がつかないほど甘く、優しい瞳をしていて、見ている此方が溶けてしまいそうな感覚を覚え、は溜息を付いた。
首筋に顔を埋められて思わず身を攀じれば「動くな、阿呆」と喉の奥をどこか震わせ、笑われながら言うものでより一層彼女は硬直せずにはいられない。こんなに至近距離で、甘ったるい言葉を囁かれるとは思わなかったのもある。
「大佐、酔ってるの」
「……酔ってなどおらん」
まだ、婚約段階だというのに、籍ははまだ家にあるというのに。
困惑したままは喋る度に僅かに動く髪が首筋を撫でてくすぐったさから声を漏らしそうになる。勇の独特の香りがした。女性がよくつける流行りの香水とは違うそれはを自然と緊張させていくのだから仕方が無い。
落ち着かなくて、そわそわと行き場のない手を虚空にぶらん、と下げていれば勇はそんなが可笑しいのか、抱きとめながら「阿呆」ともう一度笑った。
「誰のせいで」
「さあ、な」
「……大佐、本当酔っ払ってないで、戻ってください」
敬語が時折外れてしまうのはおそらくは勇に困惑し頭が回らないせいだ。
の主張など、あっさりと拒まれることなんて眼に見えていたというのに、それでも反抗をしてみると、勇はその端正な顔を少々歪める。
貴方って本当に変な人。呟くよりも前に唇を再び掠め取られる。
ぐ、と声を上げるよりもずっと早く体の中の熱がより加熱されてぐるぐると身体中を駆け巡り、終いには拒むために添えられた手は行き場を無くしてぶら下がるばかりだ。
髪の中に手を挿し込まれ、角度が変わってより深く口付けられると意識がだんだんと遠のいてくる。
言葉にすらならないの言い方に勇は少しばかり笑った。
どんなにあがいても、どんなに気が強くても、所詮は年下の、それも女。
帝国軍人になど勝てるわけがない。
銀色につながれた糸は彼らの縁を形取り、そして消える。泡沫の恋のように、夢のように。ぼんやりとした瞳を浮かべるの瞼の上へ接吻を落とす。妙に耳をくすぐる女特有の高い声が小さくあがった。
口端を歪めて勇は首を振る。否、とあえて否定をした上で、喉の奥で小さく笑った。怪訝な顔をしたは息が少しばかり弾んでいたので、髪を撫でてやる。
これ以上羞恥心を煽られたくはないのか、彼女は勇の制服を握りしめた。
いつもの距離感なんてものはもうない。
ぴたりとくっついた掌は熱い。耳をくすぐる言葉。指先で魅せる形にの頭は既に沸騰寸前だ。
酒臭い口づけをもう一度され、酒気帯び状態の勇はいつもよりもどこか子供っぽく笑って彼女の手を取った。
品のある行為に心奪われながらじっと彼を見つめているを他所に彼は掌に口づけを落とし、手の甲にもまた、一つ落とす。
貴様は逃げられなどしない。低く笑った彼の言葉はどこか妖艶で、揺れる瞳に心を奪われてしまう。
いつもだったら「物じゃない」だの何だのと逆らうのに、まるで息を潜めた自分の意思には呆れた。
いつかはこうなることを彼女は分かっていたのかも識れない。
婚姻関係を結ぶということは、そういうことだ。けれど、にとってそれは「今」じゃない。こんな状況でお手つきになるなど、言語道断だった。
しかも相手は酒気帯び状態。
頭が痛かった。
子供のようにごねる勇には見られないように小さく笑った。
可愛い、のかもしれない。
大の大人なのに、よりずっと歳上なのに。子供のように拗ねて、子供のように構ってもらいたい。
は手を伸ばし、今にもかぶり付きそうな勇の頭をよし、よしと撫でてやった。傷んでいるのか少し外にはねた髪を引っ張ってやるのは愛嬌だ。
したかったから、しただけ。
そう笑ったに、噛み付くように口付けを落として勇は意地悪く笑った。
何度も絡みつくような口づけをかわして、が目を細めて首を振っても耳を貸さない。
酔った勢いの流れの中で、彼女は何度か勇の名前を呼んだ。その度に彼は笑う。頬に添えられた手をかすかに動かして、恍惚に満ちた表情のまま―やがて、ずるりと崩れ落ちる。
体格差に加えての睡眠状態。全身の体重がずっしりとにのしかかって来る。体を支えるのさえ精一杯で、ふらつく両足をどうにか保ち勇を見上げると彼は顔色ひとつ変えずに寝息を立てているものだから、腹が立つ。
今までの行為を思い出せば顔から火が出るし、かといってこのまま捨ておくわけにもいかない。
片手を抑え、抱きとめたままずるずる引きずっていけば珍しく使用人の姿も見えない。は彼の体を引っ張りながら、ふう、と溜息を付き彼の部屋へ向かう階段をどうにかこうにか登り始めると、ずるり、と危うく転倒しかけた。
世界が、一瞬にして反転する。
声すら出ない。……しかし、痛みはない。
両目を細くした状態で彼は片手でを支えていた。
寝起きがいいのか、彼女を支えていた手を離した後に真っ直ぐさっさと歩き始めた勇に慌てては追いかける。本当に彼は酔っていたのだろうか。慌てて追いかければ階段を七段ほど上がってから急に立ち止まる。
視線だけで振り返られて、自然とは彼を見上げる形になってしまう。目元の皺が色濃くなって、初めて会った時よりずっと年を重ねたのだということに気づく。
。
彼の唇がそう動いて、は彼から視線を外せないまま階段を上がる。何段目かで立ち止まると、彼の手がの頬に触れる。
ぞくり、と背が粟立つ。
硬直するを観察するように指先で首筋、咽喉、顎、唇、鼻、瞼、耳を撫でた後に勇は薄く笑った。
大佐。
そう彼女が言うよりも前に引き寄せられて、持ち上げられたと思うと口づけを髪に落とされる。
今は未だ。繰り返し口端を歪ませて言う勇の表情はどこか少年のようだ。
触れられた箇所が熱い。
どくん、どくんと脈打つ体を握りしめては目を閉じて精一杯吐き出せる限りの息を吐ききった。
彼は嘘つきだ。
馬鹿正直のくせに、嘘つきだ。
そう文句を言えば、彼は実に穏やかに笑ってくしゃりと髪を撫でた。
笑った勇に、は顔を背けて「今更あなた以外見えるとでも思ってるの」と言って暑そうに手で何度も何度も顔を扇ぐ。何故こんなにも暑いのか、理由なんてものはもうわかりきっている。何の反応もしない勇にちらりと視線だけ送れば、彼は随分と楽しそうにを見ている。
……余り見ない笑顔だからだったからもしれない。
見入るように彼女が動けないでいれば、瞳を覗き込まれて、もう一度音もなく、接吻が落ちる。
啄むように交わした後、羞恥心から顔を上げられないが踞っているのを勘違いしたはるが大慌てで千富を呼び客室のベッドに担ぎ込まれていくのは少し後のこと。
【今更手放すとでも思っているの?】