流行リ言葉、教エマス
「ああ、それは良いわねえ」
恍惚として語る友人の頬は赤らみ、随分とうっとりと夢心地だ。それも一人二人の話ではない。五人という大人数が皆同じ顔をしている。
エス、という関係がにわかに巷で話題になっているが、はその話が上がったことがない。友人たちの中には後輩とリボンを交換して「エス」という関係になったとか、お姉さまと呼ばれるようになっただとか、色々なことを語り合う。甘味処で餡蜜を食べる。
女学生たちの最近の流行はミルクホールや甘味処での学校帰りの御茶だ。
エスの関係についてうっとりと語る友人には婚約者が居たはずでは、ふと、は疑問を持ったが、彼女たちいわくそれは「野暮」らしい。独特な笑い方でを嗜める姿は何とも滑稽で、は首をかしげずにはいられない。
「さんは、どなたかとエスにはならないのかしら?」
「言われたことないかなあ」
「まあ、そうなの?」
実際のところ、彼女が気づいていないだけなのか、それとも本当に後輩が彼女に興味を無いのかは謎だが、兎に角にはそういった話はまるで湧いてこない。
不思議と女生徒たちの話から逸れてしまったは彼女たちの話に耳を傾ける。けれど、彼女にとって未知の世界である「エス」はあまり気持ちが唆らない。それよりももっと、西洋の話だとか、帝劇の話だとか、数学とか、理科とか、英語などを語りたいものだ。餡蜜を口に放り込み、茶をすすっていると甘味処に誰か入ってきた。
その人間は、もよく知る人間だ。
「あ」
「様!」
ぱぁ、と少女の顔が明るいものに変わる。宮ノ杜家で使用人として働き始めた「はる」という少女はそうたちとは年も変わらない。突然の知り合いの登場には喜び、友人たちに席を立つ旨を伝えるとそのままはるのほうへと寄っていく。
彼女の手持ちには既に籠があり、中には本と反物が入っている。
「おつかい?」
「はい、此方の羊羹を買ってくるように言われました」
「それ、誰が所望したか当ててあげようか」
どうせ、大佐でしょ。随分とあっけらかんと言うに対してはるは大正解ですと驚き、そしてぱちぱちと拍手を送る。は苦笑を浮かべたが「ここの羊羹じゃなかったら嫌だってわがまま言うもんねー」と店内をぐるりと見渡し、直ぐに一つの羊羹を見つけると「はい」とはるに手渡した。
はるは羊羹を確認すると店主に「宮ノ杜の者です」と挨拶を加えて金を支払う。その姿をは確認すると、ふと思い出したようにはるを呼び止めた。
「私も一緒に行っていい?」
「お友達はよろしいのですか?」
「ちょっと待ってて」
一陣の風のようにあっという間にははるの前からいなくなると友人たちと何か話した後、懐から財布を取り出し机に紙幣を置くとそのままはるの元へと歩いてきた。よろしいのですか、というはるからの質問はにこり、と笑うことで黙殺する。
電車に乗りながら、は学校のことを朗々と語る。その世界ははるの知らない世界で、彼女は目を爛々と輝かせ随分と楽しそうに耳を傾けてくれるので、も自然と笑顔がこぼれた。誰と誰がエスの関係であるだとか、そんな聞いた所でわからない話をして、エスの説明をするとはるはよくわからない、とばかりに首を傾げる。その動作は全く先ほどのと同じで、どこか楽しい。
宮ノ杜家が見えてくると、玄関には見覚えのある男が二人ほど立っており、何やら神妙な顔をして話しをしている。かたや宮ノ杜家の次男であり、もう一人は情報家だ。
「喜助!」
「おっと、様じゃあないですかあ。お久しぶりです」
「いっつもフラフラしてるから捕まらないものね、あなた」
「ははは、こりゃ失敬」
有田喜助は帽子を外してぺこり、と少々仰々しく言うとは仕方ないと胸を張り、笑顔を浮かべる。おはるちゃん、おかえりと喜助の興味がはるに移ると自然と彼女の視線は会話のもう一人、勇に向かう。
そこにはいつもの三割増しで不機嫌な勇の姿があった。訝しがりつつもが彼を観察すれば、ぴくりと眉が揺れる。
「……今日は自転車ではないのだな」
「誰かさんが来るたびに文句を言うので……というのもあるけど、今日は友達と用事があったもので」
一言二言余計だったが、勇はそうかとしか言わない。いつもなら噛み付いてくるので、は調子が狂い、おや、と小さな声をあげそうになった。
随分と深刻な面持ちに「大佐」と声をかけると、彼は現実に引き戻されたかのように「何だ」と返す。
「いえ、なんか、青瓢箪みたいな顔をしているから、つい」
青瓢箪、と思わず勇が復唱すれば意外とかばかりには目を丸くして最近の流行として顔色が悪い人のことを「青瓢箪」と言うのだということを勇に教える。
青瓢箪みたいに真っ青。言い出したのが誰かはわからないが女学生たちの間では一般的に使われている為、もまた何事も無く使っていた。勇は「また意味の分からんことを」と溜息を零したがそれ以上何も言わない。
「……大佐、本当に顔色悪いですけど」
「ええい、うるさいと言っているだろう、何なんだ貴様は!」
「心配してるのに何でそうつっかかってくるんですか!」
勇が苛立ちを隠しきれず無理矢理に溜息を搾り出すと、は納得がいかないのか眉根をぐいと寄せる。奇妙な光景ではあったものの、珍しいものを見ている気分になり喜助とはるは揃って顔を合わせ彼らをじっと見つめていると、勇が耐え切れなくなり「俺は戻るぞ」と踵を返した。
だが、ぐるりとが回り込み彼を見据える。まるで鬼ごっこのような状況だ。
「退け」
「嫌」
「勝手にしろ」
するり、との横を通り過ぎようとした勇に彼女は風呂敷の中に入れていたものを素早く出すと、胸に押し付けた。
反射的に勇がそれを受け取ると、不機嫌な表情がさっと影に潜まり柔らかさに驚いた顔に変わる。
「お土産です、あげる。じゃ、帰ります」
淡々と要件を言うと彼女はそのまま踵を返す。受け取ったその品物を何か確認すると勇は驚きの名前を呼ぶが彼女はさらり、と無視をしたままでずんずんと足を進める。
はるに戻るように命じ、喜助の横をすり抜けると、ずんずんと大股かつ肩を怒らせて歩くを追いかける。、ともう一度名前を呼ぶが彼女は全く人の話を聞かないとばかりに素早く進んでいく。
だが、彼女の足の長さと勇の足の長さは全く異なり、彼は軍人である以上歩くのも速い。捕まるのは時間の問題で、その時間もそうかからずに終わる。宮ノ杜の屋敷を出てから五分弱であっという間に彼女は勇に腕を掴まれてしまう。
「なんだ、これは!」
「だから、お土産」
「押し付けて帰る気か」
「ええ、だって」
お土産なのだからそれはそうだろう。
言い返そうとするの意見を今度は勇が無視する。掴んだ腕を引っ張りそのまま屋敷へ引きずり込む。
「痛い痛い痛い何なのもう!」
「千富!」
ばたばたと逃げ出そうとするを有無を言わさず抱き寄せ、持ち上げると彼女は「わあ」と少し泣きそうに声をあげた。
千富は玄関先の騒ぎさに気づいたのかあっという間にやって来ると思わぬ来客に「あら、まぁ」と思わずを凝視し、次に勇を見る。
「父上に言っておけ、俺は受ける気はない、とな」
「理由は如何致しますか?」
「そうだな――……まだ、面白い事が残っているのでな、と」
千富は「かしこまりました」と頭を下げてその場から去ろうとしたが、勇が先程が持ってきた土産を彼女に渡し「後で茶と一緒に出すように」と命じるので、その包を受取って姿を消した。
その会話の流れの間、ただじっとは勇を観察し、黙々と「何故彼は結婚しないのか」ということを考えていた。
今しがたの話題が何の話題なのかわからないほどは鈍感ではなかったし、ついでに不機嫌だった理由も把握した。
縁談が大佐に昇進して以降、再び片っ端から来ていることは知っていたものの、それに対して彼がどの縁談をも受けないことも彼女は感じ取って苦笑する。理由は以前トキが言っていた「運命の女」を探しているからだろう。
だから結婚出来ないのだ。
顔は悪いわけではない、寧ろ精悍で、社会的地位もその若さで大佐までのし上がっている。申し分のない相手であり多くの令嬢たちを資産家が縁談にと出してくるのも分かってしまう。妙に客観視しているが、一時期とはいえ彼女もまたその中の一人であったことを思い出し、「いいんですか?」と彼に思わず尋ねてみた。
「何がだ」
「縁談」
「貴様とて断っているだろう」
「私は……ええと、そう、面白いことが残ってるので」
学校もあるし。うんうん、と頷いた彼女に勇は呆れて「俺の言い訳の真似ではないか」と言い放つ。
勿論、彼女は真似をしたつもりはなかったのだが言われてみれば確かに先ほどの勇の発言と全く一緒で「ああ」に手を打って確かにと頷いた後にくつくつと突然に笑い出した。何がおかしいのか勇はわからず困惑し眉根を寄せたが、それでもやはり笑うに「お前はよく分からん」とぷいと顔を背けてしまう。
「ああ、待って下さいよ、大佐」
「笑うな!腹立たしい!さっさと帰れ!」
「いやですー」
上機嫌に鼻歌交じりになりながらは、すっと勇の横を通り抜けて「千富さんにお土産出すように言ってたのは大佐なんだから、御茶ぐらい付き合ってくださいよ」とはにかんだ。
そのにこやかなに毒気を抜かれ、勇はこれでもかと溜め息をつく。泣いたり、怒ったり、笑ったり、焦ったり。忙しい女だ。
並んで歩きながら、罵ってからかって茶化されて、お互いにぎゃあぎゃあと言い合いをしながらも微妙な距離感を保ちつつ、千富が来るまで緩やかに時間が過ぎていった。