「」
その名を呼ばれ、彼女は両足を止めた。
「これはこれは、殿下」
にこり、と愛想笑いを浮かべると実に不愉快そうに男は顔を顰め、その足音を立て彼女の隣に立つ。褐色の肌に色の異なる瞳がより爛々と夜のせいか輝いて見える。
いつから彼が――サーリヤがを見つけていたのか、は把握できないが、曖昧に笑って状況を把握することもなく周囲を見渡し会話を終わらせた。サーリヤはそこまで愚鈍でもなく、が話を切ったことにより彼女の視線の先を何となく自身も目を向ける。
光のささない宵闇。常にこの世界は月が出た、闇の中に生きている。
「」
「はい?」
は笑っていた。月明かりに照らされながら何がおかしいのか分からない微笑を浮かべて、ゆらゆらと揺れる瞳にサーリヤを映す。
まるで映画のワンシーンのように、ゆったりと胸の前で組んでいた腕をほどくとサーリヤに対して「どうかしましたか」と問う。
「――お前は」
「ええ」
「……いい」
すう、と静かに何かを確かにサーリヤは言いかけたが、彼は結局何も言わなかった。は「そうですか」とだけ返す。
煌びやかな宮殿の中で、異彩を放っているサーリヤは宴を抜け出してきたのだろう。彼にとって「宮殿」とはすなわち自分をつなぎとめる牢獄であり、また楽園でもあるのだろう。
月が、ゆらゆらと揺れる。
「殿下、今宵は随分と冷えますから温かい茶でも淹れましょう」
「……お前がか?」
は侍女ではない。そして、ミフターフの人間とは思えない風貌をしていた。けれど、それ以上のことは分からない。それは勿論、彼女自身も口にしない。
サーリヤとは真逆の「部外者」だが、は薄く笑うばかりで自分が何者かも、どんな存在かも言わない。
ただ、ここミフターフでは「彼女」は間違いなく異質だった。それだけは確かで、それだけは真実である。
は「私だって御茶くらい飲みますよ」と楽しげに笑った。食えない表情にあっけにとられたサーリヤはを何度か凝視したが、彼女は矢張り笑うばかりで「ファラーシャに頼んでもよろしいですがね」とけろりと言い放つ。
紫紺の花がどこからか舞ってくる。甘い香りだ。誰の、どこの、花なのかは分からない。サーリヤのオッドアイがを見据える。はそれをさらりと交わして彼の反応を待った。目は口ほどに語ると言うがその通りで、彼女は次に彼が何を言うかを把握し、沈黙を肯定と取り「では、今持って来ます」と少しばかり仰々しい一礼をしてみせた。けれど彼女は歩み出すことは出来ず、その場に残る。
その腕が思った以上に強く引っ張られ、はサーリヤに引き止められた。彼は表情を崩さないにも関わらずその目は何かを訴えている。
「――殿下」
甘い甘い香り。花の香り。とてもむせかえるほどの甘い香りには静かに苦笑を浮かべた。月は彼らを照らす。
姫巫女は未だ選びかねている。それはですら分かることだ。そして彼女に対しては同情の念を抱いている。恋を知らない、恋を拒絶する少女にこの選択を迫るのは余りにも酷だ。
けれど、選ばなければ世界は崩壊する。
そして、その選択肢の中の一人にこの青年もまた入っている。サーリヤの顔が歪むのをは感じ取ったが、笑いは止めなかった。
ひらり、はらり。
紫の花弁がただ音もなく舞い飛ぶ。月に照らされて、静かに落ちていく。
「お前は、どう考える?」
「……リヒト様のことですか?それとも、アズラ・サヤラーンのこと?」
サーリヤは何も言わなかった。けれどは笑って「沈黙は肯定と取られますよ」と添えるように言う。
楽しんでいるのか、憐れんでいるのか分からないの口ぶりはどこかこの出来事が他人事のような雰囲気を持っている。
花の香りに感覚がマヒしてきたのだろうか、酔ったのだろうか。サーリヤは顔を顰めた。まるではそんな顔をすることもお見通しだったのだろう「まるで私がいじめてるみたいじゃないですか」と続けて言う。
「……うるさい」
「それはすみません」
矢張りは笑う。
は笑ってばかりだ、とサーリヤは心のどこかで思う。彼女はいつも飄々と笑っている。喜怒哀楽の二つの感情が抜け落ちたかのように、笑っていて――それは、どこか遠い。
「……」
「彼女が選んだ選択なら大丈夫でしょう」
「……呑気だな、お前は」
月夜に照らされて、サーリヤの双眸が輝き揺れる。彼の口調とは全く逆の顔で彼は微笑していた。はその顔を見て満足そうに「ええ」と再び笑って見せる。
「さぁ、殿下。御茶でもしましょう。それとも、淹れて下さりますか?」
「お前な」
「まぁ、淹れてくれるなら私としてはありがたいけど」
そこは妥協しておくよ、とは先程までの畏まった喋り方をやめて言う。どことなく柔らかくなった口調にサーリヤは呆れ、そして「お前と居ると退屈しないな」と言い返した。それは遠まわしに遠回しの皮肉だったのだが、彼女はそれはどうも、とさらりと交わして笑顔を浮かべるばかりだ。時間の感覚がこの世界ではなくなってしまう。太陽の昇らない、昼のない世界。
「」
「はい?」
「…………お前は、どうしてここにいるんだ?」
唐突すぎる質問には笑顔を固まらせた。何を言いだしているのだと笑うこともできたが彼女はあえて笑うことをやめた。彼女の笑顔が凍りついたのと同じタイミングで、緩やかに吹いていた風もぴたり、と止まる。サーリヤの双眸にが捉われる。宮殿の花を一本手折るとは「さぁ」と至極ゆっくり――けれどもはっきりそう言った。
この真紅のゆりかごの中に、蒼。その存在は不協和音に近かった。限りなく透明に近いブルーなのかもしれない。サーリヤの「蒼穹の色をした瞳」に近いのかもしれない、とはどこかで思うが、言葉にはしない。言葉にした先に何があるのか――瞬間的に察し、口をつぐむ。
「…存外、あなたのそばが心地いいから、とか?」
「またそんな適当な冗談を」
どこまでが冗談か何処までが本気か、は分かりにくい。サーリヤは口元に手を当てて何か考える素振りを見せた後にどこか不敵に笑って見せての手を引っ張った。何度目か分からぬサーリヤのやり取りに、は「今日は子供みたいだねぇ」と頭を撫でた。子供扱いするなとその手を払いのけながらサーリヤは不服そうに文句を言う。その言葉はにまで届かなかったがファラーシャと言い、といい、というところまでは聞きとれて、どこか可笑しい。
どうして可笑しいのか。どうして笑えるのか。
には分からなかったが――やがて、ゆっくりと把握する。
常夜のこの世界で、彼は安息できる相手がいるということが嬉しいのだ。その中に、少しでも自分がカウントされていたことがまた、嬉しい。
「ふ、あはは」
「何故笑う」
「あはは、どうしてだろう、凄く――そう、凄くうれしいんだ」
「――変な奴だ」
知ってるよ、とはまた笑ってガラス瓶に入った蜂蜜酒を茶に一滴淹れるとサーリヤに差し出すと続けて「でも、それはサーリヤ殿下もでしょう」と言い放つ。
王子によくもこういけしゃあしゃあと言えるものだが、普段の彼女の人柄のせいなのかもしれない。何より月が青白く、どこまでも丸いせいだ。魅せられる。こんな日には――夢魔が夢を食べに来てしまうだろう。そしてはどこかその「夢魔が来ること」に期待しているのかもしれなかった。
「変な奴を良くサーリヤ殿下も邪険にしないね。普通皆いやがるというのに」
「お前は変だが馬鹿じゃないからな」
「ふふ、それは褒めてる?」
「さぁな」
問答を交わしながら、は笑いをまた堪え切れず声に出して笑う。馬鹿みたいに、ころころと鈴がなるように笑う。その笑い方はとても上品だとは言えなかったが先程のうすら笑いよりは余程良い。月明かりに照らされる砂漠を見渡しながらは両手をそっと空に投げだした。空には月と、星が煌めいている。常夜の世界であるここでは何一つ変わらない状況ではなく、ありきたりなものではあったが――はとても楽しげにサーリヤに言った。
花弁が彼女の掌の上に乗ると、はその花びらをサーリヤに向けてふう、と吹いて飛ばす。ひらり、と紫の花弁は舞い、彼の髪に落ち着く。
「よく似合ってる」
「馬鹿言ってるな」
そういうサーリヤの口元は悪態をつきながらもどこか、静かに笑っていた。
こうして、静かに月日がめぐればいいのに。どこかではそんなことを願い、その一方で全く逆のことを願い、悟られぬように笑顔の裏で溜息をこぼす。
願わくば――願わくば。ああ、どうか。
こんな風にまた笑えることを。
言葉にならない声で、静かに神に彼女は祈る。月もサーリヤもそれに気付かずに、ゆらゆらと彼女の瞳だけが揺れていた。
2011.04.11