SWEET DANCE

 エントランスで何か紙を読み込んでいるを見かけたのは偶然だ。夕焼けに染まる髪と、俯きつつも目線だけはしっかりと楽譜を追いかけている姿に一瞬言葉を失った。
 人の多いはずのエントランスがこんなにも静かなことに妙な違和感を桐也は感じたが一歩、に近づくとは人の気配に気づき、顔を上げて「ああ」とひらひらと桐也に手を振る。緩やかな笑顔だ。

「勉強中?」
「考え事中」

 夕焼けに照らされて彼女の髪がキラキラといつもより色彩が薄く映る。彼女の横に並び壁に身を預けるとは緩くため息を付いた。
 この季節になると学院内全体が色めき立つ。どこの西洋風仕様かはわからないが社交界のような煌びやかな日。後夜祭という名の学院のパーティではダンスが決まっている。
 そのために女生徒は一年の頃より社交ダンスを放課後レッスンで短期間に学び、ドレスを選ぶのだ。
 桐也もその催しについては昨年学院に紛れ込み様子を見ていたので知っていたが、実際にその状況を見た際にはさすがに閉口した。
 コンクールに出る音楽科の生徒たちだけではなく普通科の生徒たちもドレスとタキシードで着飾り談笑を交わし、ワルツを踊る。これを来年やるのか、と思うと気が遠くなったのをよく覚えている。
 プリントと睨めっこをしていたに、桐也は声を掛けた。


「何?」
「ダンス、どうすんの」
「そっちは?」
「質問してるのは俺」

 質問を質問返しするほど嫌なものはない。露骨に不機嫌な顔をすればは肩を落として「考えてない」とだけ返した。
 桐也に倣い、隣の壁にぽんと背中を彼女は預けると天上を見上げてはあ、と溜息を零す。
 その姿を観察しながら桐也はエントランスの下を見下ろした。たまに生徒が一人、二人、もう下校時間なのだろう。歩いている姿を見かけるばかりだ。
 こんな時間があったら練習室で練習したり、森の広場で練習するなり、練習や解釈を深めるのに最適だというのに、はぼんやりとそこを見ているばかりで、動こうとはしない。

「……なんかあったか?」
「……まあ、受験生だからね」
は留学希望?」
「まあね」

 月森がこの学院からオーストリアに留学したのは二年の終わりの頃だ。
 たまにコンクールのメンバーにメールが来ることがある。あの冷血漢にもいいところもあるものだと土浦が笑っていたもので、からすれば「音楽科に編入してきた土浦くんについても意外だって言うんじゃないの」と軽口を叩き返し、ついでに頭をはたかれた。
 この学院に居る音楽科志望なら、誰もが留学を考えるだろう。腕試しに、とスキルアップに、と。

 はぼんやりと「でも」と続ける。

「―ちょっと、迷ってる」
「なんで」
「……」
「行くべきだろ、にとってはチャンスじゃん」

 桐也はいつだって全力投球だ。真っ直ぐに、が目をそらそうとしたことを突きつける。
 はうん、と頷きながらプリントを桐也に渡した。文字を追いかけると段々桐也の顔色がさあ、と変わっていく。

「……
「分かってる」
「わかってないだろ、なんで推薦場所がこっちなんだ、お前クラシックは」

 にとってクラシックはきっかけだ。音楽に触れるきっかけであり、クラシック至上主義に近いこの学院に居る以上クラシックは必要になってくる。
 けれど、彼女が立ちたい舞台はそこではない。そんなことなど、桐也が一番分かっていた。
 クラシックの有数のオーケストラ。有名なヴァイオリニストと同じレッスンを受けれる。
 恐らくこの立場が桐也であったのなら、この大学への推薦の話が上がった時点で喜んで留学しただろう。けれど、その推薦を受けているのはだ。桐也ではない。


「―― 
「うん」
「決めるのは、だ」
「……うん」

 夕日に照らされた彼女は少し泣きそうな顔をしていた。
 けれど、桐也は慰めたり励ましたりという言葉は苦手で、何を言ったらいいのかもわからない。
 でも、と桐也は言葉を続けての頬に手を当てた。

「でもさ、俺はが選んだところを否定はしないよ」
「……桐也くんって、甘いんだか厳しいんだか分かんないよね」

 頬を触れる手が熱い。ぐい、と頬を引っ張られて、桐也が「褒めてないだろ」と小さく笑うともつられて笑った。
 はあ、と頭を抱えたのプリントをひょいと奪いとり桐也が「じゃあ俺がこれ行けばいいだろ」と全く何事もなさげに言う。思わず顔を上げればさも当然とばかりに留学して、プロになって、一番になるからさ、と付け加えるのだ。
 その自信家なところは相変わらずで、桐也のその言葉には救われた。

「桐也くん」
「何だ?」
「後夜祭、気が向いたら私と踊ってよ」

 唐突すぎるそんな誘いに桐也は目が点になったが、次いでは言う。
 それで、いつか。また。

「桐也くんと踊ったんだぞ、って人に自慢をさせて」

 クラシックで、ヴァイオリンで勝負の世界に飛び込むには彼女にとって、もうクラシックの世界は色あせて見えた。
 それ以上に光の粒が舞って、高揚感がある世界を知ってしまったから、はクラシックに戻れない。
 桐也はどの道を選んでも見ていてやると笑っていた。その背中の押し方でふっと力が抜けるのを感じて、泣きそうに笑う。
 そんなを見て、桐也は苦笑を落とす。

ってほんっと、不器用だな」
「失礼な」
「素直に俺のこと好きだって言えばいいのに」
「そっちこそ、素直に私と離れたくないって言えばいいのに」

 太陽はまだ沈まない。照らされて顔が赤くなる桐也を笑って、はその手をそっと彼の前に差し出した。
 握手のような形ではなく、ただ手の甲を上にして、差し出す。

「一曲、踊って頂けませんか?」
「それ普通男のセリフ」
「絶対言わないじゃん、桐也くん」

 手を引っ込めて笑ったにむっとして、桐也は流暢な英語と紳士な佇まいで手を差し出し笑った。

「Shall We Dance?」
「そういうときはマドモアゼル、とか付け加えなよー」
「mademoiselleはフランス語だろ」
「ムードないなあ」

 くすくすと笑いながらその手をとったの掌は思ったよりもずっと肉刺が出来ていて、指の腹が硬かった。決して白魚の手とは言えないが、努力の証に爪も短く硬い。
 そっと手を持ち上げると、「え」と小さな声が聞こえた。無視して掌からするりと手首を掴み、掌に口づけた。

 ちゅ、とリップ音が妙に劈く。

「ちょ、ちょっと」
「約束だからな」
「……そーいう恥ずかしい真似、よく出来るね、アメリカ帰りの余裕ってやつ?」

 ぶつぶつと文句を言うは耳まで真っ赤だ。好きだ嫌いだ恋や愛。いろいろな感情があるというのには笑って気付かれないようにしているつもりなのだろう。
 お互い様だがお互い素直じゃない。しかもお互いに勝気と来たものだから、どちらが先に言うかの賭けに近いものがあった。だが、それは「が此処に居る」ことが前提である。
 桐也はニヤリ、と小さく笑った。

「そうだよ、だから、遠慮なんてしないから、覚悟してよ。
「……ああ、もう」

 恥ずかしくて死にそうだというのに、どこかこんな関係を望んでいた自分がいて、悔しそうには桐也を睨みつけた。するり、と手首が解かれると妙に色っぽく桐也は笑って「好きだって今なら言ったら許してもいいけど?」と言う。
 年下のくせにナマイキだ、そう言い返しながらは持っていたプリントを握りながら壁に頭を激突させ恥ずかしさを隠そうとする。
 下校時間を知らせる放送が耳に届くと桐也はもう一度手をそっと差し出して「帰ろう」とにこりと笑う。先程から桐也のペースで、それが何やらを悔しくさせた。手を取らず先ほどの桐也と同じように手首を引くと、思った以上に彼の体は揺れ、彼の首筋に唇が小さく触れた。
 そんなところにキスをするつもりなどなかったというのに。
 目を丸めたのは桐也で、それ以上に驚いたのはだ。え、とほぼ同時に声がしたが、は手首を離して慌てて「ほら、帰ろう!」と側に置いていた鞄をぐいと持ち上げてヴァイオリンケースを手に取った。

「あー……もう、アンタって、ほんと」
「桐也くん!先帰るよ!」

 はいはい、そう頷きながら桐也は首筋を指で触れる。妙に熱い。火がついたようだ。今自分はどんな顔をしているのだろう。窓ガラスには自分が写っていたが夕焼けに照らされているからわからない。
 けれど妙に口元が緩んでいて、だらしない、不抜けた顔をしていることは間違いがない。
 のせいだかんな、と言えばは知らないよ!と笑った。

 そんな、騒がしい二人の関係は一歩、漸く進みだしたようで、沈みゆく太陽を背に並んで歩む家路への道で彼らの手はそっと触れ合っていた。