いざ、華やかなる道へ

 大桟橋は桐也が気に入っている横浜の中でも喧騒と静寂のはざまにある場所だ。
 ほんの少し肌寒かったからジャケットを羽織り両手をポケットに突っ込んで、そこで知り合った友人たちといつも通りの会話を交わす。
 何も変わらない、いつも通りの日々だ。高校受験を控え、コンクールを控え様々な状況下におかれた自分のほんの少しだけの休息。この時間が彼にとってのほんの少しだけ与えられた楽しみの時間でもある。学校でもない、家でもない自分だけの新しい場所といえばいいだろうか。
 目を閉じると少し遠くから弦楽器独特の高い音色が響く。彼とともに談笑をしていた友人たちも気づいたのか顔をあげて「どこから聞こえてくるんだろうな」と立ち上がり音の主を探し始める。
 この通りでストリートライヴがやっていることも少なくはないのだが、ヴァイオリンの音というのは耳に残る。特に桐也の場合はヴァイオリンに関してはちょっとした――否、とてつもない自信がある。耳を澄ますと、そのヴァイオリンは高く、より高く昇りつめようと高い音を響かせる。

「……あれか、もしかして!」

 友人の一人、一番背が高い男が声をあげた。指差す先には人だかりが輪のような形を描いている。桐也はその足をゆっくりと進ませ、そっと輪の中へとはいって行った。後ろからは桐也、と彼のことを呼ぶ声が聞こえたが、彼の耳は既にヴァイオリンにのみ向けられ、そこで作られた世界に感覚を奪われていた。
 ぐん、と音がより響き渡る。サックスのリズミカルな音。ギターの音、キーボードの音。その中で人を惹きつけるヴァイオリンがソロになった瞬間、桐也の肌が粟立つ。背筋、首筋、両腕。思わず自然と目を開き、彼は口元を緩ませた。上手い。ヴィブラートも、槌で打つような強いがゆえに雑音が入りやすいマルテラートも、軽やかに、それでいて丁寧に使いこなしている。
 ヴァイオリンを弾いているのは自分と年齢がそう変わらない女性だ。楽しそうに弓を抑えて空間に音を溢れさせる。聴衆一人一人に音を与えるように、たった三小節で世界に引きずり込ませる。
 音の世界。光の粒のようになって、彼女たちの周りで七色に輝いているような錯覚を桐也は覚えてふうん、と小さく唸った。じゃん、と足並みのそろったピッチで締めると歓声がどっと沸きあがる。知らぬ間に人はさらに増えていたらしい。中央にいたヴァイオリン担当の少女は心底楽しそうに頭を下げて「どーもーありがとうございます!」と楽しそうに手を振った。
 楽譜をめくり、姿勢を直すと「次は知ってる人も多い曲で!」といい、バンドメンバーと視線をあわせる。桐也はソリストしか目指していないのもあってか、どうにも彼らのようなアンサンブルへの魅力を感じない。
 誰かに合わせて、自分を抑えるなんてまっぴらごめんだ。
 そして何より、アンサンブルへは苦い記憶もある。アメリカにおいてきたその感情を自然と思い出してち、と彼は小さな舌打ちをこぼす。そんな桐也のことなんてお構いなしに少女たちは音を再び奏でる。ああ、海賊映画の主題歌じゃないか。思わず噴き出せば、周囲も同じ反応なのか時折くすくすと笑い声が聞こえてくる。
 それでも、彼女たちの音はやはり世界に引きずり込ませるものを持っていて、彼女たちは楽しそうに弾いている。あの顔は、桐也は見覚えがあった。――アメリカの、友人たちと同じような顔だ。
 時折危なっかしそうな笑顔を浮かべて、音の世界に浸り、恍惚としたように最後のフレーズを弾き終える。一泊の沈黙ののち、先ほどよりももっともっと大きな喝采が湧いた。女は驚いたように目を丸めたが、すぐに嬉しそうに笑ってバンドメンバーを全員立たせ、一人一人の紹介をしていく。ギター、キーボード、サックス……そして、五人目として指を大きく天に向けた。

「そして、ヴァイオリンは私、です! みなさん聞いてくださってありがとうございました!今日も一日聞いてくださった皆さんにとって良い日でありますように!」

 仰々しく全員で一礼をするとぱちぱちと拍手が起きる。そして輪は崩されていき、輪の中心にいた彼らは片づけをしながら談笑をし始める。桐也もまた、友人たちが彼を見つけ会話をいくつか交わした。
 …が、彼の瞳はまっすぐにヴァイオリニストの少女に向けられている。彼女は視線に気づいたのか、ヴァイオリンケースにしまって止め具をぱちん、と音を立てつけると桐也のいる方向へくるりと振り返った。

「…さっき聞いてた人だね、聞いてくれてありがとーねー!」

 屈託のない笑顔を彼女は向け、桐也の予想を反してすたすたと彼らの前に現れるとすっとその手を差し出してもう一度「ありがと」とはにかんでくる。
 唐突の出来事に桐也は目を丸くしたが、ポケットに突っこんでいた手を彼女に向け握手を交わす。手から伝わる彼女の指の硬さに練習をしていた証が見えて何だか舌打ちをしたくなった。

「……あんた、途中でボウイングズレただろ」
「え」
「気づいてなかったわけ?……ちゃんともっと練習しなくちゃ、大台に出ても恥かくだけだぜ」

 手厳しい意見に彼女のバンドメンバーが「は?」と文句を言いかけたが、彼女は苦笑いし「そうだねえー」とのんき極まりなく笑った。さらり、と交わされたということだろう。手を離すと彼女はくるりとバンドメンバーたちの中央に立った。

「君はいつもここに来ているの?」
「……まぁ」
「じゃあさ、私の曲、たまにでいいから聞いてくれない?」
「…なんでそうなるわけ?」

 唐突の話に、彼らは口々に彼女の名前を唱えるが、彼女は気にするそぶりもない。ただ、けろっとした口調で「人の意見を聞くのが好きで、君なら意見をちゃんと言ってくれると思ったからだけど」と言い返す。
 確かに、桐也は立場だとかそういったものを気にしないで意見をする癖がある。アメリカ帰りだからと言ってしまえばそれっきりかもしれないが、本人の成長には本人に言ってやることが一番大切だという彼のモットーが故もある。

「それに、ボウイングのズレに気づくってことは当然ヴァイオリンやってるんでしょ?」
「……まぁね」
「じゃあ、いいじゃない」

 よほどの変わり者だ。
 桐也は彼女をそう評価した。自分の言った言葉に対してたいていの人間は憤慨するか、しおらしくするかなのだが、彼女は文句も言わずしょげたりもせず、単純ににこにこと笑って「またよければ言って」という。
 その雰囲気はどこか同じヴァイオリン教室に通っていた王崎を思い出す。ふんわりと笑った、温和な人。あの人とこの少女が似ているかと聞かれれば全く似ていないのだが、何となく、そう何となく――彼を思い出した。

「……最後の曲のスタッカート。あそこのテンポ、あれであってんの?…変だったけど」
「あれーそうだったかなぁ」
「変だろ、どう考えても」
「桐也!」

 友人たちが彼の名前を呼ぶまで桐也は彼らのことを忘れていて、現実に戻されはっと顔をあげた。彼女も彼女で「」と彼女の友人に声を掛けられてしまった、と顔色を変えた。

「お前なぁ、試験近いのに」
「あーごめん、ほんっとごめんってばー」
「次のコンクール曲もそろそろ決めないとな」
「国際コンクールもあるしねー」

 国際コンクール。ぴん、と彼は耳がその単語をとらえた。このジャズバンドはどうやらコンクールにも出ているらしい。バンド、であるから自分とフィールドは違うが……けれどもこの少女の技巧はどこかクラシックのそれを思い出させる。

「あんた、名前――えっと、?」
「え?あー、うん、私?そう。。…君は?」
「……衛藤桐也。…あんた、この辺の人?」

 この辺の音楽学校といえば星奏学院が有名だ。星奏学院といえば母方の親戚の吉羅が理事長になった話で有名だ。はぱちぱちと瞬きをするとにこりと笑い「そう、星奏学院の音楽科だよ」とバンドメンバーを指差し、「ここにいる全員がね」と付け加えた。
 なるほど、と妙に納得した。だから一人一人の技巧がそれなりにあるわけだ。へたくそではない、ある程度の自信を持った面々。……けれど、桐也からすればキーボードはジュディのほうが上手かったし、と自分ならば自分のほうが上だという自覚はある。それでも。

 それでも、彼らは何かを惹きつけた。


「来年には神戸でもあるし、後はさ来月のソウルのやつも出るんだよな?」
「うん。何気にコンクール詰まってるんだよね」
「へえ、あんたコンクールに出るのか」

 桐也が意外とばかりに目を丸めた。は苦笑いをしながら「まぁねー」とヴァイオリンケースをわずかに揺らす。だがしかし、桐也はの顔を見たことがない。クラシックだからか。ジャズだからか。に尋ねれば「さぁ」とにこやかに笑うだけで深くは言わなかった。


「桐也君はヴァイオリンなんだよね?」
「あー…ああ」
「そっか。じゃあ星奏に一度来てみたら? クラシックなら今レベル高い子多いよ、ヴァイオリン」

 じゃあ、また機会があったら。すべての片づけを終えて、彼らは桐也と桐也の友人たちに手を振って街中へと消えていく。
 桐也の友人たちは呆然としながら彼らの背中を見つめ、桐也はの「レベルの高い子」という言葉を聞いて胸がざわつくのを覚えた。
 世界じゃなくて、日本でもヴァイオリンのレベルが高いやつらがいる。そして、そいつらと戦える。ぞくぞくして、自然と口元が緩んだ。



「――、ふーん」


 彼女のソロだった時の音色が耳にわずかについて、思わず「変な奴」と彼は笑った。
 星奏学院に吉羅に会うついでに行った際、普通科のヴァイオリニストの少女に出会った桐也がふてぶてしく感想を言ったのはまたのちの話。そして、に怒られたのも後の話である。


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