Navigatore Infallibile



リンゴをかじりながら、アッシュは甲板を興味深そうに見渡し、船の状況を書き連ねていくを観察した。
彼女の知的好奇心はどこか錬金術師のそれと似ているものこそあれど、は船の中を案内されてまるで表情を変えず、船の現在地を確認しながら次々と走り書きを書き連ねていく。
万年筆を仕舞い、マストに手をかけるとぎしりと鈍い音が響く。

「おい、あんま触ると壊れるからやめろ」
「幽霊船の割に作りはしっかりしてるのね、腐ってるかと思ったけど、縄は丈夫だし……」
「天候に左右されるからな。ある程度は錬金術でどうにでもなるが、自然には勝てねえ」

そりゃそうでしょうよと答えながら、は甲板の上にある樽に置かれたリンゴを拾い上げた。真っ赤に熟したリンゴを親指でわずかに擦ると、そのままアッシュに片手でパスを送る。彼は片手で受け取ると退屈そうに再びリンゴを噛り始める。何度かあちこちを行き来した後、彼女はゆったりと足を伸ばすようにして、食堂の椅子に腰掛ける。
船の中を散策されることに慣れていないアッシュからすれば疲れる事この上ないのだが、彼女は満足気に走り書きをいくつもしてある自分の手帳を見なおしては指先で確認していく。
船の中は、驚くほどに静かだ。幽霊ももう居ない。
アッシュにとって見れば異常事態であり、にとって見れば通常時と何も変わらないことである。この場所で黙々と料理を作ってくれていた気のいい女幽霊は、やデビトたちの話をまとめると、パーチェの母親ということになる。結局タロッコに振り回され生きて、死んでいった人間たちが集まってきていたのもあるせいだろう。無事に成仏できたのならば、アッシュにとって見ればどうということもなかった。……少し、彼女のラザニアが食べれないのは残念ではあるが、仕方がない。

「満足かよ、みかん頭」
「動くところを見たいんだけど、流石にそればっかりはどうしようもないよね」

この船が動くときは、アルカナ・ファミリアを出る時だ。アッシュは今のところ客人であり、アルカナ・ファミリアの正式なファミリーではない。もちろん、タロッコを所持している以上、アルカナ・ファミリアの現在のドンであるモンドからすれば「ファミリー」だというが……アッシュにとっての恩返しが終われば彼はきっと航海に出るのだろう。
嘗ての先祖たる一族の遺産を持ちあわせて。
アッシュは向かい合わせになった状態で腰掛けながら頗る退屈そうに「そうだな」と淡々と返した。は諜報部である以上、余計なことを言えばそれは直ぐにモンドに知られるだろう。信頼出来る人間、とはどうにもこうにも言えるとは思えない。少なからず彼女は、生きてきた経験値から言えばリベルタよりは馬鹿ではない。……リベルタの過去を考えれば、ヨシュアの一件や彼の孤児としてのことなどとは異なる人生であるので何とも言えないが、「諜報部の人間」としての経験値は流石に外部の人間であるアッシュでも分かることだ。

「それで、海図は?」

司令室を見ても、船長室を見ても彼女は何かを探していたようだが、思い出したようにアッシュに尋ねると、彼ははぁ、と曖昧な声を上げた。
海図なんてものは多分どこかの本棚の奥底に仕舞いこんであることだろう。そもそもあまり海図を見ない主義だ。
以前であればヨシュアがレガーロ島へ向けての方向を察知してくれたり海図を見ていたような気がするが、アッシュ自身にとって見ればこの船旅は行く宛もない旅である。ヴァスチェロ・ファンタズマ。船乗りなら誰もが知っている幽霊船だ。
はアッシュの発言に信じられないとばかりに目を見張り、そして苦笑した。

「海図を持たないで旅を続けるなんて、随分と豪快というか、無謀ね」
「うっせぇよ、どうせ方向は錬金術で操作してるし問題ねーだろ」
「航海士の幽霊とか、いなかったわけ?」

航海士がいれば、方向や状況把握には問題がないだろう。天候を把握し、進路を把握する。
……アッシュの反応を見るに、にとってみれば「ありえない」としか言いようがなかった。どんぶり勘定かつ行き場のない航海にしても、海図すらないというのは航海をしたことのある人間にとって見ればありえない話だ。
頭を抱えそうになると何だよと視線に気づいたアッシュが毒づいた。

「海図持ってないで、航海なんて本当無謀でしょ……水深だってあるわけだし」
「ンなもん、錬金術で浮かせればいいだろ」
「……錬金術の基本は等価交換って確か前にルカから聞いた覚えがあるけど?」

あの帽子野郎。
小さくアッシュが苦々しげに舌打ちと共に愚痴を漏らしたが、は聞かなかった振りをしながら船の地図と己の知識を照らし合わせるようにして地図を書き写す。

「部屋のあちこちにリンゴがあったけど、あれは獣化から戻るため?」
「まぁな」
「よく腐らないのね」

リンゴは一つ腐敗していけばそのまわりにある他のリンゴも共に腐っていく。そして乗船している中で唯一の「人間」はアッシュのみだ。彼一人がリンゴを食べるとしても、数には限度がある。加えて食堂にはカテリーナが居り彼女が調理をしていたのを思い出す。
調理をするには材料が必要だ。その材料をアッシュが用意していたのかと思うと、食料の腐敗スピードはこの船では遅いという結論に至る。食堂のリンゴを持っていたアーミーナイフで剥いていくと赤い皮が繋がっていく器用な指さばきにアッシュが小さくへえ、と呟きながらその作業を見つめていく。
は質問への回答がなかったことに不満を覚えながらも、さらりと剥き終わったリンゴを八等分し、古びた皿の上に置くと、置かれるや否や彼の手が伸び、しゃくしゃくと頬張り始める。
丸かろうと、姿を変えてうさぎの形をしていようと、アッシュには関係のない「リンゴ」という成分が重要なのであろう。はひとつつまみ、口に放り込む。しゃり、と小さな音がする。

「錬金術で、腐敗しないようにしてあるからな」
「錬金術って便利」
「オマエには一生無理」

やりたいなんて言ってないでしょ。
呆れたように言うに、アッシュはわずかに笑い返した。
この船には海図も、シップログも、羅針盤もない。けれど意外とどうにかなるもので、今までもこれからも面倒な事にあったことはない。
アッシュはリンゴを食べながら、を見やる。の目が、彼を捉えると彼は彼で最後の一つをぺろりと食べきった。

「なら、オマエがくるか」
「……何に?」
「俺の船に。航海士として」

居ても居なくても、変わんねぇけど。
小さく呟いたアッシュには少しばかり驚きながらも、「それは、スカウトしてるということでいいのかしら」と至極楽しそうに笑った。

「……ま、どーせ随分先の話だろうから、考えておけよ」
「ファミリーの一員として誘ってる? それとも」
「知らね」

自分で考えろ。ぐしゃぐしゃと彼女の頭を撫でたアッシュはぶっきらぼうに彼女の横にあったリンゴを拾い上げ、また食べ始める。
リンゴ、リンゴ、リンゴ。
少なからずアッシュの胃袋はリンゴに支配されているようにも見えた。文句を言おうとすれば、彼女の口にリンゴを放り込まれる。
……しゃり。しゃり。
甘い音が、また響いた。

「私を入れたいなら、モスタルダはあるんでしょうね」
「ハァ? オマエがそれぐらい作れよ」
「航海士入れるのもいいけど、料理人いれるのも考えなさいよ……」

よくそれで生きてこれたね。
呆れたように言う彼女に、当たり前だとアッシュは繰り返す。幽霊船で育った彼らしいといえば、実に彼らしいものだ。


「ま、欲しいと思ったら俺は奪ってでも連れていくけどな」
「……あんたって、本当自分勝手」
「錬金術師なんて、皆そんなもんだろ」

皮肉交じりに笑ったアッシュに、違いないとは両肩を落とす。
きっと彼のことだ、有言実行で俵担ぎにされて連行されても違和感がないだろう。実際、それで以前フェリチータが誘拐されたのだから。

「精々、覚悟はしておくってことで」
「ハッ、潔い女は嫌いじゃねぇ」
「それは、どうも」

思わず目を細めた彼女にアッシュはニヤリと笑った。




2012.06.27

モスタルダ:果物をマスタード風味のシロップにつけた食べ物
Navigatore Infallibile:狙いすましの航海士