| モクジ |
耳たぶを噛まれるということを、!は初めて経験していた。唐突すぎる出来事に目の前が真っ暗になり、え、と漏れた声はうまいこと言葉として出てきたのか否かの判断さえ彼女にはできなくなっていた。
意味がわからない、という危険信号が脳内で響き渡り、自然と彼女は握り拳を作っていた。
目の前の銀髪の男は僅かな彼女の反応に気づいたのだろう、するりと身を離すと片目を瞑る。少々のその余裕の表情が余計に彼女を苛立たせるには十分すぎる理由になった。
「歯ぁ食いしばりなさいよ、あんた……!」
「おいおいおい、なんだよ、ちょっとしたジョークだろ」
真っ赤というよりも真っ青。そして目が微塵も笑っていないその表情に危険であることを察したのだろう。
アッシュは両手を降参のポーズにしてあげると彼女の拳が容赦無く振り下ろされた。だが、彼に直接当たることはなく、風を切り彼はニヤニヤとした笑いで!を見下ろしている。顎を捕まれるとその双眸の碧の瞳がゆらゆらと揺れているように見えた。
「なんで避けるのよ」
「避けるだろ普通はよ!」
拳が風を切る。!は振り上げるスピードを僅かに上げて、次に足を踏み込まんと体を少しだけ開いた。とん、とん、と僅かにステップを踏みアッシュが後ろに下がった後に猪突猛進に突っ込んできた彼女の腕を流れるままに一度受け止めて、ぐるりと反転すると腕ごと奪い取る。
関節技を決められて、彼女の顔は苦痛に歪むが直ぐにアッシュを見上げて睨んでくる。
「はい、俺の勝ちな」
「〜!!」
気の強い女を屈服させることに悪い気はしない。アッシュは!を見下ろしながらニヤニヤと意地の悪い笑顔を浮かべていた。
その、一瞬の隙に彼女の足は思い切り彼の弁慶の泣き所に入ることになる。
痛恨の一撃に思わずアッシュは手を離ししゃがみこむと今度は!がじっと男を見据えている。その表情には笑顔はない。
「何すんだよ!」
「そっちが先に仕掛けてきたんじゃない!」
まるで子供の喧嘩だ。
彼らのやり取りをリベルタが見たら大いに驚くだろうし、ノヴァが見たら呆れるだろうし、パーチェら幼馴染三人が見たら笑うのだろう。
年上としての行動している!が覗かせる子供のようなやり取り。
アッシュが脛をさするので仕方なしに手を差し出せば、今度はアッシュの手が彼女の腕を再びつかみ、ついでとばかりに引っ張り込む。……バランスを失った!はそのままアッシュの腕の中に収まってしまった。
ふわり、と香る林檎の匂いは、甘酸っぱいことこの上なかった。
「……なんだよ、その顔」
「あんたこそ何すんのよ……!」
妙に心拍が早い。エイトビートを刻むような鼓動の速さに耐え切れず、!は直ぐに立ち上がると「このバカ」と良くわからない罵り言葉を残して一目散に去っていった。
何がなんだか分からないアッシュは首を傾げたが――のそりと立ち上がると「テメー誰がバカだ!」と彼女を勢い良く追いかけ始めた。
……エイトビートは、スピードを緩めることなく、どくどくと彼女の心を打ち震わせていた。
本日発売!おめでとうございます。
09* エイトビートはドラム・ビートのひとつです。早まった鼓動のような感じで。
| モクジ |