雨天を仰ぐ
世の中思い通りにならないことばかりで、一々腹を立てていたら自分の身が保たない。
「絳攸様」
お帰りなさいませ。持っていた書簡を全て丁寧に並べ終えたことに満足したのか捲っていた裾を戻しながら、主の帰還には安堵した表情を浮かべて一礼をした。彼が宰相になってから大分経つ。王都が落ちた時のことは過ぎ去りし日々の思い出として、記録として残っていても人々の記憶から段々と薄れ始めている。
過去に、悠舜が死んだ時のこともしかりだ。尚書令としての空っぽの席を見る度に、李絳攸は彼を思い出すのだ。若さ故の過ちの中に見た彼の表情はやはり食えなかったが……歳を重ねて彼と同じで異なる場所にたって気づく、王にとって必要とされた彼の存在を、羨ましく思う。宰相という立場になってからというもの、それが殊更じんわりと胸中で広がっていく。
王は、彼が必要だった。他の誰に……それこそ、彼の右腕と揶揄される自分たちが苦言を呈しても、尚。彼にとっては、必要な存在に違いない。
悠舜の行いは正しいか否かと言われればきっと正しかったのだろう。けれどそれを若かった自分が分かることは出来ない。愚かな玉座に座る王と、その彼を盲信した従者と言われて爪弾きにあったこともある。……それらは、全て過去のことと切り捨てるにはいかなかった。
「お加減が優れないご様子ですが……何か、御座いましたか?」
そう言われて彼は漸く顔を上げる。は衣の裾を丁寧に整え終え、静かに絳攸を見つめていた。揺れることのない瞳は絳攸を捉えており、彼が口を開くのを待っているようにも伺える。
何でもないと手を振れば、左様ですかととても丁寧に返される。少々彼女に対して誤魔化していることへ胸が痛んだが、心の中で謝罪をするだけで、言葉を飲み込む。
鈍色の空は今にも泣き出しそうで、雲が空を覆い隠そうとしている。は絳攸の羽織りを外すのを手伝いながら、視線を外へ一瞬だけ向けると「一雨来そうですね」と淡々と答えた。
「……ああ」
「絳攸様」
「……すまん、少し一人にしてくれ」
「畏まりました」
淡々と彼女は答え、静かに去っていった。
後ろ髪をひかれるわけでもなく、粛々と去っていく姿はどこか見透かされているような錯覚を覚えたが、絳攸は目を瞑り懇懇と考えをまとめようとする。けれども答えは見出すことが出来ず、普段の彼と同じように同じ場所を何度も何度も往復し、最終的にいつもと同じ場所で立ち止まり「何故こんな簡単な答えに行き着くことが出来ない」と文句を言う心。
やがて、静かに曇天が雫を落とし始める。地面を叩きつける水音に、ふと彼は懇懇と腕を組んで考えていた状態から、漸く顔を上げた。
雨だ。
思わず口にして、衣服が執務と同じ官服であったことに気づく。着替えなくては、と立ち上がると机の上に置かれていた茶器に気づく。
……まだ、どこか茶器は温かかった。
「か」
急須の中にはどこぞの父茶とは比べ物にならない、柔らかな香りがしている。
これは何の香りだろうか。ぼんやりと考えながらもやわらかな香りが絳攸を支配して、ゆっくりと彼は開いていた目を自然と閉ざしていく。ああ、雨の音さえどこか心地よく感じる。
、と彼女の名前を口にすれば扉の向こう側が小さく音を鳴らす。どうやら扉の向こうで待っている人間が居るようだ。
ゆっくりと絳攸は立ち上がり扉の前に立ち、そのまま背中を預けるような形にして凭れかかった。
「」
「……はい」
「俺は何が正しいのか、今でもよく迷う」
彼女の反応はとても冷静だった。
ただ耳を傾けて、気配を消すこと無く恐らくは絳攸と同じように背中を預けているのだろう。僅かに扉の向こう側が動いているような気がした。
とん、とん。静寂に孔を開けるように雨の音が耳につく。その音は、彼らを黙って包み込んだ。
「私には政は難しゅうございます」
「……」
「絳攸様のお役には、きっと立てません。……けれど」
多分、御側に居ることぐらいなら出来ると思います。寧ろ、それぐらいしか出来ません。至って真面目な声は、少しだけ震えているようにも感じられた。
の名前を呼べば彼女は苦笑いしたようで、そろそろ寒いので中に入れていただけますでしょうか、と尋ねてくる。考えてみれば温石や火鉢で出来る限り部屋を温められている此方と、外に出ているでは寒さの度合いが違う。馬鹿じゃないのかと扉を開ければ、が困ったように絳攸を見つめていた。
「……風邪をひくだろうが」
「そうですね」
くしゃくしゃになった絳攸の顔を見つめながら、は尋ねる。答えは見つかりましたか。
……絳攸は答えることはなかった。
見つかるわけがないことを知っていたからなのかもしれない。はくしゃくしゃになった絳攸の頭を軽く抱きしめて、ぽん、ぽんと背中をさする。こういうことをすることを許されているのはある意味、特権なのかも知れない。彼はきっと、義母である百合以外にこういったことを許しはしないのだろうから。
「……腹が減った」
「夕餉にしましょうか。ああ、書簡、片付けておきました。そこに」
「助かる」
「いいえ」
こんなことぐらいしか、出来ませんゆえ。
の笑い方に、ぎこちなく絳攸は笑い返した。
雨は、まだやまない。
2012.04.14