火神と図書室
本を黙々と読んでいる彼女にとって、向かい側に座る人間は視野に入っていなかった。
元々世界に入り込む傾向があり、読み始めてから暫くたって物音と気配を感じ取ったものの、彼女は視線を上げずに本のページを捲り続ける。
どのくらいそうしていただろう。
半分ほど読み終えると、一旦四章の終わりで彼女は栞を挟み溜息をこぼした。やっと一息つける。暫くの間入り込んだ世界から抜け出すが未だに何処か少しばかり夢心地だ。
そして、手元の本に小さな陰りがあることに気づく。
ゆっくりと顔を上げると仏頂面をしている男の姿があった。
仏頂面かつ色濃く眉間に皺を寄せているのに、どこか眠たげに何度かこくり、こくりと船を漕ぐ姿は面白い。
余程朝練で疲れているのだろうか。
本を閉じ、彼女はじっと彼を見つめてみるが、どうやら瞼をこじ開けることはなさそうだ。
赤銅色をした髪は男子らしく短く、大雑把に切っており、目のあたりに僅かにかかっていたので、手で払ってやることも考えたが――矢張り、やめておこう。 そこまでする間柄でも何でもないのだから。
本に視線を戻せば、おい、と妙に低い声が彼女の耳に届く。 どこからの声か、なんて考える必要もなかった。先ほどまで伏せられていた瞳は彼女を捉えている。
目付きが悪くどうにも女子から怖がられている傾向にある彼に対して、彼女は存外にも落ち着き払った声で「おはよう」と挨拶を一つ交わした。
火神は頭を何度かがしがしとかいた後に、姿勢を正して彼女の手元にある本に視線を送ってみる。
何も面白いことはない、彼からすれば眠くなるだけの本だが、彼女にとっては意味があるものなのだろう。
タイトルを読み、直ぐに腕を組み片目をつぶると、彼女に対して「終わったら呼べ」と一言だけ言って今度は開いていた目も閉ざす。
「なんで?」
「……今日、練習が休みだからな」
「そう、で、なんで」
分かれよ。
彼が強く言ったが、彼女は矢張りというべきか首を傾げる。
分かれと言われても、何故彼女が本を読むのを彼が待っているのか――どうにも、彼女には分からない。鈍感なのか、はたまた火神が分かりづらいのか、そのどちらでもあるのか。
火神は気まずそうに視線を逸らしていたが、観念したように「一緒に帰るからだろ」とぶっきらぼうに言う。 彼女が随分と驚いたように目を丸めて、え、と思わず呟くと彼はこれ以上にないほどに窓際へ顔を背けた。
……ああ、可愛いところもあるんだ。この人。
思いがけない表情に、少しだけ彼女は笑った。
「……火神くん」
「あ?」
「……後、200ページぐらいあるんだけど」
それでも、待っててくれる?
彼女の少々ばかりの捻くれた返事に、ばぁか、と照れくさそうに彼は言い返して彼女の頭を小突く。
「さっさと読んじまえ……待っててやっから」
その言葉が、妙に暖かくて、優しいもので。 クラスの女子たちは改めて彼の本当の良さを知らなくて勿体ない。
そんな風に彼女は想いながらも……どこかで、そんな優しいところを知っているのは自分だけでいい、なんて小さな独占欲を抱きながら諭されないように視線を本に向けた。
(2012.04.14)