香る、雨



 その日はやたらと雨が降っていて、しかも晴れと言っていたものだからころっと騙され傘を持っていなかった。天気予報担当の美人なお姉さんが先日から後任のお姉さんに変わってしまって、そのお姉さんが美人だから余計にあっさりと騙されてしまった。
 例えばこれが夕方にやっているちょっと眉毛の太いおっさんだったら文句も言えたものを。
 ……勿論気象予報士とお天気お姉さんは違うものなので、八つ当たりも甚だしいところなのだが、そんなこと彼にはお構いなしだ。
 不運続きじゃないかと毒づきながら和菓子屋を左に曲がり、真っ直ぐ突っ切り横断歩道を渡る。楽器を守るようにして走れば丁度いいところに雨宿り出来る数寄屋造りの店を見つける。

「すんません、雨宿りしたいんやけど、ええ?」

 中に入るとふわり、と漂う白檀の香り。嗅ぎ慣れた線香の香りに店を確認せずに入ったが此処が香房であることを金造は認識する。
 明るい店内の中で雨のせいだろう、客はいなかった。店内にいた女性が「ええよ」と言うと座るところへ促してくれた。
 ざあ、と雨の音が響き店内で流れている琴の音とセッションを始めている。不協和音にならないのが不思議だ。さっきの店番をしていた女性はさっと奥に引っ込むと御茶とタオルと、栗羊羹を出してきて金造に勧めた。おおきに、と御礼を言いながら外を見ていると雨脚は先程より強くなってきている。
 これは雨宿りをして正解だったな、とうんうんと妙に頭を縦に降っていると、戸がガラガラガラ、と音を立てた。

「ただいまあ」

 気の抜けた挨拶と共に一人の女がひょっこりと顔をのぞかせた。見覚えがあるような顔に一瞬金造は口に含んでいた茶を飲み干し見入ると、彼女も何かを思ったのか「いらっしゃい」と言いつつも視線を金造に向けたままだ。
 どこかで会った気がする。否、確実に会っている。もしかしたら、という気持ちが金造の中にちらりと覗いた。
 学生時代に特別仲が良いわけではなかったが、気になる女子がいた。そして金造は彼女が自分に気があったことを知っている。……が、そのまま何かがあったわけでもなく終わったほろ苦い思い出だ。もう二年以上も前のことで、懐かしいなあと妙にしみじみしていると、彼女は恐る恐る「あのう」と声をかけてきた。

「志摩、君?」
「え」
「正十字で一緒だった……よね?」

 私、クラスで一緒だった。と自分を指さし少しだけにこりと笑った。瞬間、どくり、と妙に心臓が跳ねる。何を言ったらいいものかうまく言葉が出てこなかった。
 高等部の三年間、あくまでも「学校」で一緒だった人間だ。進路がどうとか、そういう話をした覚えもなかったが……まさか京都にいるとは思いもよらず金造は目が点になった。
 、と彼女を呼ぶ声がすると慌てて「ごめんねまた後で」とあっという間に彼女は去っていく。
 ふわり、と優しい香りが残り香として漂い、ああ、と妙に金造は納得した。
 直ぐには戻ってくると、すとん、と彼の横に腰掛ける。そこから始まった会話は至って当たり障りのない世間話からのスタートだ。聞けば彼女はこの家業を継ぐらしい。

「お前、京都の出身やったんやなあ」
「東京にも支店があって、そっちにずっと住んでたから京ことば、出ないの。だから、あんまりこっちの人っぽくないって言われるんだよね」

 やんわりと笑いながらは自分の分の茶を啜る。つられて金造も御茶に口をつけた。玉露の香りと温かさが身にしみる。

ん家、香房やったんやなぁ、知らんかったわ」
「私も志摩くんが祓魔師だったなんて知らなかったよ」
「え」

 祓魔師。そのさらりと言いのけた彼女に金造の手は止まった。祓魔師であったことを伏せていたわけではないが、なんとなく言いづらくてそのまま黙っていたのだが……ちら、とを見れば彼女はにこりと笑顔を返す。
 ふわり、とまた香の匂いがした。

「……怖ぁないん、俺のこと」
「なんで?」
「や、祓魔師ってそんなええもんでもないし」
「そうなの? でも志摩くんは志摩くんだから」

 なにも変わらないよ、と付け加えるように彼女は言う。予想外すぎる物言いに、思わずぐうの音も出せず金造はたじろいでしまった。
 琴の音と雨の音すら聞こえもしない。店内にはふたりきり。
 そんな格好な状況だというのに、まるで中学生のように何も出来ない自分が不甲斐ないのと同時に「どうしてしまったのか」といつもより早い鼓動を必死に抑えながら考える。じゃらり、と胸の中にある錫杖が小さく揺れた。

「あんな」
「うん」
「――雨宿り、さしてもらってるやろ?」
「雨凄いもんねえ」

 彼女は窓の外を見た。雨脚は未だ激しいままで、傘を持たずにかけ出していけば濡れ鼠になることは目に見えている。傘貸すよ、と呑気に笑いながら彼女が立ち上がろうとすると、慌てて金造がそうじゃなくて、と手を引っ張る。

「香、なんか見繕うてほしいんやけど」
「別に気使わなくていいのに」
「一宿一飯の恩義、言うやろ。あれと同じパターンや」
「面白いなあ、志摩くん」

 じゃあ、何がいいかなあ。金造を座らせたまま彼女は手馴れた手つきでひょい、ひょいと香を選び始める。梅花、伽羅、菊花、玉椿、薄荷……。コーン型から渦巻型までいろいろを手にとっている。
 その姿を見ながら金造はひょい、と羊羹を口に含んだ。
 和菓子独特の、あんこの味。甘さがほんのりと口に広がって、そして茶を啜ることで消えていく。

「あ、志摩くん、好きな香りとかある?」
「法事で使うのしか分からんわ」
「そっか、お坊さんだもんね」

 じゃあ同じタイプのものがいいかもしれないね。そう言うと直ぐに視線を戻す。あれでもない、これでもない。悩む姿は女子高生が服だのおしゃれだのをする時とまるで変わらない。
 彼女は何も変わっていなかった。そのことに少し安堵して、のそり、と金造は立ち上がる。
 すん、と鼻を利かせれば、やはり彼女からは優しい匂いがした。

は香水つけとるんか?」
「ううん、お香焚いてる」
「ふうん、どれ?」
「えっとね」

 これ。と彼女が出してきたのは白檀に桜の香りを合わせたタイプの線香だ。
 ふうん、と頷きながらそれを嗅ぐと少しばかり懐かしい香りがした。そういえばすれ違う時いつも彼女はこの匂いをさせていたような気がする。
「ほな、これにするわ」とひょいと拾いあげると金造は上機嫌にに渡した。一方のは「えー」と驚愕し何度か金造と線香の束を見比べて本当にいいのかと尋ねた。

、ええ匂いがするなぁて昔から思うてたからな。これにするわ」
「え」

 まるで睦言のような言葉を何気なく言った金造に思わずは硬直した。金造は何を言ったのか分かっていないのか「お焼香まだ残っとったかなー」と実に呑気に睨めっこを線香と交わしている。ゲームを欲しがる子供のような表情だ、とは小さく思った。真剣に何がいいのか分からないと眉間に皺を寄せてうーん、と首をひねる様は昔と何ら一つも変わっていない。
 追加で一つ、焼香と写経に使う塗香を籠に入れると、先程の線香をじっと見つめ、何かに気付いたように「あ」と小さく金造は呟き、あちゃーと頭に手を添えしゃがみ込んでしまう。あああああ……と妙な唸り声を上げるのではぎょっとしながらどうしたの、と尋ねると、今度は金造は黙りこくってしまう。何が何だか分からずに居ると、今度は彼はすくっと立ち上がった。

「線香、俺ん部屋焚けへんねん」
「え」
「ちゅーか俺夜勤とかあるから部屋で焚ける時間限られてるやん……ああしくった」

 何を言い出しているのか、さっぱり分からない。頭の上に疑問符をいくつも乗せて首をくの字に曲げると「」と名を呼ばれた。反応を返せば、しゃがみ込んでいたのをやめて今度はすくっと姿勢よく立ち上がる。先程からくるくると表情の変わる金造に思わず笑ってしまいそうになるが、は出来るだけゆったりとした口調で「どうしたの」と返す。

「線香って香水にならんかったっけ?」
「原料が違うよ」
「そーか……やっぱ無理かー」

 でも諦めきれへんしなあ、とぶつぶつと睨めっこをまたし始める金造と、先ほどの自分がよく部屋で焚いている香を見比べ、漸くは納得した。
 欲しいけど、焚くタイミングがない。けれど、諦め切れない。腕を組み考えこむ金造の姿に感化されて、ついは「じゃあ」と声をかけてしまう。
 ぱたぱたと別の場所に移動し、そこに置かれたものを手に取ると直ぐに金造のもとに走り「これじゃ、だめかな」と手に取ったものを彼の掌の上に乗せた。

「……匂い袋?」
「これなら、線香みたいに焚かなくても匂い嗅げるよ」

 金造はの説明を聞きながら巾着に視線を落とす。青海波模様をした群青色の巾着は、随分と小ぶりで袖の中に入れていても全く違和感がないだろう。結構お客さんに人気があるんだよ、と言う彼女につられてへえ、だの、ほお、だのと相槌を交わす。

「これ、追加な」
「まいどあり」

 少しばかりイントネーションをわざとらしく変えて、はにこりと笑った。先程からコロコロ表情が変わるせいか、金造の目は彼女にいってしまう。恋というものはもっと心臓がはちきれそうなほど高鳴って、喜びがあって哀しみがあって怒りがあってそのほかもろもろがあって、少女漫画や自身の恋愛経験のどれともとやり取りは異なっていた。
 和む。しみじみと、ただ、和むのだ。
 懐から財布を取り出し金額を出すと、手際よく彼女は金額を数え、彼に釣り銭を渡す。

「雨、やまんなぁ。そろそろ行かな」
「あ、なら傘貸すよ」
「ええの?」
「本当は車乗せてってあげたいんだけど、私も仕事あるから……ごめんね」

 しょんぼりと頭を下げたにつくづくこの女は真面目であると金造は思った。それとほぼ同時に「傘貸してもらえるだけでも頭下がるのに、そないに俺喜ばしても何もあげられんで」と軽口を叩く自分に軽く嫌気がさす。は金造に苦笑しながら外の雨の具合を確認した後に店奥に一旦引っ込んでしまう。
 その間に金造は残りの茶と菓子をぺろりと平らげ、雨の音を聞いていた。しとしとと、先程よりは雨脚は落ち着いたらしい。バンドをやっている以上そのビートに合わせて足がリズムを立てるのは仕方が無いだろう。ゆえに、彼女が戻ってきた時も全く気づかなかった。志摩くんとが名を呼ぶ。思った以上の柔らかい声にぎょっとし、心臓がどくん、と少しだけ高なった。

「お、おん」
「傘、これでいい?」

 ばさ、と彼女は真っ赤な和傘を彼に差し出した。黒塗りで仕上げられた柄とろくろに高級感を感じる蛇の目傘の助六模様。
 なるほど、これならば一発で見分けはつくだろう。

「おおきにな、
「忙しいのにごめんね、送れなくて」
「ええよええよ」

 つい、いつもの悪い癖が出てしまう。そっと伸ばした手が、彼女の頭に触れてぽん、と音を立てた。え、と言ったのはか金造か、はたまた両方か。揃って顔を見合わせ「あ」と今度は揃って言った。
 なんやこれ、照れるわ。
 思わず照れを隠すようにぐりぐりと少し強めにの頭を撫でると、彼女は小さな悲鳴を上げた。漸く手を離すとぶっきらぼうに背を向けて扉の前へと金造は歩いて行く。

「ほなな、そんうち、返しに来るから」
「あ、志摩くん」

 ぱたぱたと、彼女は彼を追いかけてくる。先ほど購入した香の入った紙袋を彼に手渡し「またね」とはにかんだ。金造もつられて応、とだけ返しその蛇の目傘をばさ、と広げた。
 傘にまで匂いは染み込んでいて、心地が良い。

「ほな」
「うん」
「あ」

 思い出したように金造はに言った。
 志摩やと、大勢おるさかい、今度からは名前で呼んでな。
 雨音が一瞬ぱたりと止んだかと思うくらいの静寂がそこに訪れたが、金造はそれを無視しもう一度「ほななー」と軽く手を振ると有無をいわさず走りだしてしまう。取り残されたはワンテンポ遅れながら「えっ」と顔を上げ、金造を追いかけようとするが、雨に阻まれ動けない。
 みるみるうちに見えなくなる法衣と目立つ金髪。ゆらゆらと揺れる赤い傘。どうしたらいいのか分からず、彼女は母に名前を呼ばれるまでじっと彼の影を見つめていた。


 振り向かないようにしていた金造の足が止まり、彼ははああああ、と思いきり嘆息する。ずっと言いたくても言わなかった「志摩くん」の呼び方に対して、ついに言ってしまった。確かに志摩は多い。だから名前で呼べ、それ以上でも以下でもない。そうだ、それだけだ。必死に自分に言い聞かせる。
 中学生でもないのだから造作も無いことだ。実際金造の過去の彼女たちは「きんぞー」と少し小馬鹿にしたり楽しそうにしたりいろいろな意味と愛をこめて彼の名前を呼んでいた。
 けれど、違うのだ。彼女の場合は、それが通用しない。見栄を張ろうと何だろうと、けろりとした顔でいつもと変わらない素振りで「志摩くん」と彼女は言うのだ。それほど話を沢山したわけではない。祓魔塾の人間ではないから、そちらの人間たちと必然的に関わることが多い以上彼女と話す機会は学生時代少なかった。だ、というのにだ。

「あーもう、くそ」

 がしがし、と頭をかきながら紙袋に入った匂い袋を取り出し、その匂いをかいだ。柔らかい、香の匂い。

「――ほんま、俺らしゅうないわ」

 袖の中にしまうと、降り続ける雨の中くるりと傘を回し次の新曲を口ずさみながらカラン、コロンと下駄を鳴らして金造は歩いて行く。
 次に、彼女のもとに傘を返しにいくときは美味い和菓子でも持って行ってやろう。後ついでにデートにも誘ってみよう。そんなことを考えてみる。

「気張れや、俺」

 寺につけば随分と長い間道草をしていたことが父――基、所長にバレて正座に寺の掃除を小坊主と一緒に駆けずり回る羽目になったものの、妙に上機嫌な金造に思わず顔を見合わせる柔造と、蝮の姿があったとか、なかったとか。