よろめきながら全力疾走


「……何か用か?」

 体中に出来上がった切り傷擦り傷。とてもではないが無傷とは言えないようなその姿に彼女は言葉を失った。どう話しかけたら良いのかも分からず、立ち尽くすに近く身体は硬直して足は縫い付けられているように動かない。は一瞬息をすることすら忘れた。咽喉が渇いて、胃液が出てきたと錯覚するほどに口の中が痛む。
 彼は何も言わなかった。彼女も問いかけることは出来なかった。二人の間には明確なまでの溝がある。聞き出すことは彼女には困難で、またそんな資格も持ち合わせていない。
 長年いた学園から飛び出して、裏切ったと思われてもそれでも己の道を突き進んできた彼の本音はとても弱いもので、とても小さなもので、そしてとても素朴なものだった。
 和解をしたはずなのに、彼は神妙な表情のままキャラバンから五分ほど歩いたところで立ち尽くしていた。宵闇に隠れる場所。日が落ちれば肉眼で確認するのは難しいだろう。だが、彼女は偶然にも彼を見つけてしまった。

「……別に、用事なんてないけど」

 出てきた言葉は実にとげのある、素っ気のない言葉だ。彼女の行動は軽率で、軽薄で、相手の心を配慮しないものだ。いろいろなことがここ数日でおきて、彼個人の問題も関わってきている。個人の問題に踏み入れるほど深い関係でもない。
 放っておけなかったといえば聞こえはいいがそれは唯の御節介であり、余計なお世話だ。少なくとも鬼道はそれを必要としていないことは明確で、郁もまたそんなことはしない……筈だった。

「……俺は」

 自分のしてきたことを後悔したりはしない、と彼は小さく呟いた。
 彼の切れ長の赤い瞳は、その言葉とは正反対に揺れる。不安定に、不安げに。鬼道のそんな表情を見るのは、郁は当然初めてだ。敵方の大将。弱小サッカー部との練習試合で見かけた鬼道は「鬼道」というよりも「鬼神」に近いものがあったことを覚えている。ナイフみたいに切れる、鋭い人だった。
 縁というのは摩訶不思議なもので、どこで一本の線に交わるのか分からない。まるで無縁だった二人が今こうして顔をつき合わせているというのは奇なものだ。


「本当はさ、帝国に戻りたかったんじゃないかな、って思ってた」
「……俺が?」
「フットボールフロンティアの後、鬼道君、そのまま雷門いてくれたから。……あの時戻ってればなぁとか、ちょっと思ったんじゃないかな、って思った」

 まぁ、憶測だけど。
 漸く一歩、彼女は踏み出せた。縫い付けられた足を動かして、鬼道の前へ一歩、そしてまた一歩近づいていく。3メートルほどになって、彼女の足は止まった。

「……おれは雷門に来たことも、残ったことも後悔はしてない」
「そっかー、それはちょっと良かった」

 実にけろり、とした口調では言うとスーパーの袋からごそごそと絆創膏と消毒液を彼に投げるようにして渡す。一瞬何事か分からないという怪訝な表情をした鬼道に、は宵闇に隠れるようにしてひっそりと笑った。

「だって、雷門に居てくれなかった私多分、鬼道君とこんなに話できなかったし、サッカーやらなかっただろうし、マネージャーとしての仕事ももっと覚え悪かっただろうし」
「……少しは自分で努力しろ」
「してるよ、ひどいなぁ!」
「そうか?」
「そうだよ」
「――じゃあ、テーピングもやってもらおうか」

 ずいとその膝を突き出して彼は普段見えぬ瞳で彼女を見据えた。ぎょっとしたのはの方だ。いつもゴーグル越しの目は笑っている気配等ないのだが、今日、今、この瞬間彼の瞳は随分と楽しそうにしている。

「……鬼道君元気なかったし、ほら私居るの邪魔だし、遠慮していい?」
「安心しろ、もう十分考えるのに邪魔された」
「何気に酷いよね鬼道くん、さっきから!」

 じゃれるような言い合いをしながらも、は救急箱を傍に置き、箱を開ける。
 手馴れたように脱脂綿をピンセットでつまみ、消毒液をかけながらやれば僅かに膝が左へ逸れた。丁寧に消毒し、ガーゼをぐるりと巻いて応急手当は終了だ。
 手際よく次にふくらはぎのテーピングを始める。
 鬼道の脹脛は現役選手ならではで、筋肉がしっかりついている。偏っても居ない。選手としては理想的な形だ。
 は「やっぱり鬼道君は凄いなー」と初心者丸出しのことを思いながらテープを一本、また一本張っていく。

「うん?」
「……有難うな」
「……前に色々言ってもらえたから、おあいこ、ってことで」


 そうか、と、彼は笑った。
 鬼道の春奈以外の前では見たことのないような表情には動揺したが、曖昧に濁すように、そして照れを隠すように頬をかく。妙に気恥ずかしかった。
 「できた」と最後の一本を張ると、彼女は慌てて立ち上がろうとした……が急いた結果、足がもつれて転んで用品をぶちまけ結局鬼道に怒られる結果になったというのは言うまでもない。


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