そんなこと認められるか!


 私はあの男が嫌いだ。いつも笑っているあの表情を見るだけで苛立つ。全てが嫌いだ。その軽い口調も、態度も、本心を言わないところも、変に努力家なところも、全てが嫌いだ。
 何を考えているのか、分からない男だ。

「あーサーン」
「……何?」
「うーわーそんな露骨に嫌そうな顔しないでさー、スマイルスマイル」
「用が無いなら失礼する」
「まーまーまー! まだ話終わってないって。そうカッカしないで」

 がし、と肩をつかまれる。その大きい手は私のもつ手とは大きく違う。ごつごつしていて、節々も太い。大きな背丈を少し屈めてまーまー、と何度もこの男は繰り返す。
 この男が嫌いだ。本当に嫌いだ。
 苛立つ感情を抑えつつも、男の話に耳を傾ける。この男はよく分からない。
 嫌っている人間の前に現れて、へらへらした態度でくだらない会話を交わし、そして此方が嫌がっているのにも関わらず近づいてくる。猫のような人間だ。分からない。分からない。分かりたくもない。

「土門」
「はいはい?」
「……なんでそう、私に付きまとう」

 思った以上に、低い声が出た自分自身に驚かずには居られない。ぐ、と握っていた竹刀袋の手が強張る。
 けれど土門飛鳥という男は暫く考えて「んー」と顎に手を当てて、やがてぽん、と両手を叩くと「気になるからじゃないかねー?」と実に呑気極まりなく言い放った。
 気になる。どうして気になるのかが分からない。この男と私の関係は謂わば水と油のようなもので、相容れるものではない。眉を顰めて「意味が分からない」と返せば彼はその実大変困った顔をしてみせた。何時も笑っている男の割には――珍しい顔だ。
 この男は思ったことを直ぐに口にしない。そこが気に食わない。本来十四歳という人間があるべき姿というのはどちらかといえば円堂守のように馬鹿正直、猪突猛進であるべきなのではないのだろうか。否それはいきすぎかもしれないが、どちらにしても土門飛鳥という男は「中学生にしては大人びすぎている」ような気がして仕方が無い。
 ずっと睨みつけていた私の反応に困ったのだろう、頬を僅かにかいて、彼は苦笑を浮かべた。

「……サンさぁ、意外に鈍い?」
「瞬発力と反射神経は自信があるけど」
「いやそうじゃなくて、人の気持ちとか、割と興味ない?」
「ない」

 人の気持ち。考えること。そう言われたところで、察しようとしたところで、分かるものじゃない。痛みはその人間のもので、聞いたところで共有できるわけではない。
 環境、教育、今までに出会った人々――人格の問題だ。感性の問題ばかりはどうしようもない。人の気持ちを察そうとしたところで、所詮それは偽善に過ぎない。
 私の言葉に「まぁそういうと思ったよ」と彼は苦笑した。持っていた竹刀袋を僅かに強く握る。この男の、こういう顔が嫌いだ。全てを見抜いているような、この、飄々とした顔が。
 イライラする。話して居たくない。
 私は彼を睨みつけて同じことを再び言うべく口を開いた。

「…………土門、離してもらいたいんだけど」
「うーん、俺が言ってる意味、わかんない?」
「分からないし別に知らなくても差し支えない」
「そうかもしんないけどさぁ、あれだ、サン、左肘痛めてるっしょ」
「!」

 ぐ、と思わず庇っていた左手を右手で隠す。ばれているとは思わなかった。睨みつければ「いやぁ、俺こういうの気付いちゃうタチでさー」とこの男は矢張り笑っている。
 弱点を付かれた気分になり、思わず嫌悪を顔に出しながら――私はくるりと反転した。これ以上の会話は無意味だ。したところで何の意味もない。何よりも人に弱みを――何よりもこいつに握られることは、私の中では敗北に等しい何かが芽生えるのだ。
 捕まれていた手をばしん、と離し「失礼!」とだけ言い切ってずんずんと歩いていく。
 ああ、腹が立つ。ああ、イライラする。
 『他人に対して苛立ちを感じた時は、自分について知るいい機会である』なんて言葉があるが、あれは嘘だ。
 自分自身なんて見えるわけが無い。

サーン、せめてテーピングぐらいやらせてよ、俺得意だし」
「断る!」
「まーまーそういわずに」

 直ぐにこの男は追いかけてきて、腕を掴むのだ。痛みに顔をゆがめれば「ほらやっぱり」と苦笑がまた出る。ああ、イライラする。
 捕まれても、逃げ切れない自分にイライラする。

 有無を言わさずに、廊下のど真ん中でテーピングを始めようとする土門に私は腕を振り払えない。らしくない。本当にらしくない。ぐるぐるとテープを巻きながら、ふと彼は他人には聞こえない程度に呟いた。

「なんかさぁ、サンっていっつも気張ってるけど、辛いときは溜息ぐらい、別についていいんじゃねーの?」
「……余計なお世話」
「そ、俺お節介だから」

 はい終了。器用に巻かれたテープの最後をぺり、と貼り付けると「じゃあ、俺はこれで」とひらりと手を上げた。
 この男は――本当によく分からない。

「土門」
「んんー?」
「…………その……あ、ありが……」

 最後まで、言い切れることは無かった。
 ふい、と視線をそらす私に、彼は「おう」とだけ返しそのまま去っていく。本当に分からない男だ。何がしたいのかも――分からない。
 けれど、今先ほどの彼の言葉がよみがえる。辛いときの溜息。溜息なんてものをつく暇なんてものもなかったし、つきたいとも思っていない。……肘の怪我に焦っている自分の本心を見抜かれているのは分かっていた。大会が近い中で、この肘の怪我は痛手になってしまうことから焦っていたのは事実だ。けれど、そんなものは私自身の問題で、土門飛鳥という男にはまるで関係のない話であり、余計なお世話を焼かれたに過ぎない。
 ……ただ、悪い気はしなかった。
 直ぐにそこまで考えて大きく首を振る。何をばかげたことを。
 あの男の笑顔に、僅かに熱を帯びる自分の態度に腹が立つ。テープを巻かれる際に触れられたところが妙に熱い。頬も、熱を帯びていた。あいつを見てドキドキしたり目も合わせられなくなるなんて。あいつに恋する私なんて死ねばいいのに、と私は一人心の中で叫ぶ。
 恋する私を殺してしまえば、死んでしまえば、痛みも、苦味も、何もなかったに違いないのに。そうすれば――知らないで居られたのに。今更すぎる自身の感情を捨てきることも出来ず、私は唯矢張り笑っているこの男に対して、何よりも自分自身に腹を立てることしか出来ないで居るのだ。
 恋なんてものはしたくなかった。こんなにも痛いものを同級の少女達はしたいという。馬鹿みたいだ。本当に、馬鹿みたい。

 ―― 耐え切れなくなって、落とした溜息は、妙に腹の中に渦巻いていた何かを吐き出してくれた。

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