雨の日。


 彼女はそのとき図書館で本を読みふけっていた。本の世界に入り込み、周囲の物音にも気付くことなく懇々と本の世界を旅する。一ページ、また一ページ。一冊の本を読み終わったときには周囲には人もなく、図書委員は机に突っ伏して眠っている。思わず首を傾げれば窓の向こうから妙にリズミカルな音が幾音も零れ落ちてくる。

「……雨?」

 慌てて窓にかけよって、肉眼で確認すればトン、トンと窓を叩く音。更に水浸しの通路。間違いなく雨であり、それも豪雨に近しいものだ。読み終わった本を元の場所に慌てては戻し、鞄を引っつかむと図書室を出た。
 図書室の白熱灯とは違う、廊下は豪雨によって光が遮断され蛍光灯にのみ頼る形になってしまう。階段を下りて、下駄箱にまで戻ると置いておいたはずの「傘」がないことに気付く。

「……もってかれちゃった、かなー?」

 突然の豪雨だ。雷の音までしてくる。雨が入ってくるぎりぎりのラインには立つとそっと外へ視線を配る。赤、青、緑、黒。様々な傘を差した生徒たちが慌てて走って帰っている姿が見える。もう直ぐ下校時刻をすぎる頃だ。ぬれて帰るべきか否か。一瞬彼女は悩んだが、一歩、諦めたように踏み出そうとした。
 扉を叩く雨音と、雷音。思わず身を竦ませたが、走って帰ればきっとどうにかなるだろう。ぐっと顔を上げて扉を開ける。足を止めないように一歩、もう一度踏み出した。

「っ、おい、! 馬鹿、何やってんだ!」

 けれど、その体は直ぐに再び校舎内に引き戻される。髪の毛がふわりと浮いた気がした。耳元で「はー……」という盛大な溜息が聞こえてくる。それが誰のものかわからないわけがなかった。

「……あ、たっちゃんだ〜」
「たっちゃんだ〜じゃねーよ、馬鹿、何してんだよ風邪引くだろーが!」
「傘なくって〜、走って帰ろうかなぁ〜って」
「アホ! んなもん守衛んとこ行けば良いだろ! ああもういい、ほら、入れ!」

 そもそも彼の名前は「りゅうご」であって「たっちゃん」という呼び方は可笑しいのだが、いつまで言っても彼女はその呼び方をやめようとしない。中学校に上がってからも、彼と彼女の関係は以前と変わりなく――否、微妙に変化しながらも、それに気付かない振りを互いにしながら現在に至っている。
 彼はいつもぶっきらぼうだが、人が良い。真っ黒の大きな傘を広げると彼女の意見をまるで聞かず染岡はを傘の中に入れた。次いで自分も入る。更に、彼女に手を差し出した。

「ん」
「ん〜?」
「荷物、貸せ」

 既に彼は大きなスポーツバックと学校鞄をぶらさげていて、更に言えばその傘を持っている。は慌ててぷるぷると首を振れば「いいから」と無理やり引っぺがされる。大きな傘は二人を入れるのには十分すぎて、すっぽりと覆われる。雨の音が妙に木霊する。

「たっちゃん、部活は〜?」
「こんな雨じゃ中止だとよ。お前こそ何でこんな時間まで居たんだよ」
「ん〜色々あって〜」
「相変わらずぼーっとしてんな、は」

 肩が軽くぶつかりあう。ちらりとは眼鏡越しから染岡を見上げた。彼は敏い人間であり、彼女の視線に直ぐに気付くと「どうした?」と僅かに首を傾げてくる。何でもない。首を僅かに振る。
 知らぬ間に背が伸び、体格が変わり、を追い抜いた背。彼と並んだときにまざまざと自覚させられる「男女の壁」に彼女は思わず視線を背けた。彼に非はないのだ。

?」
「な〜んでもな〜い〜」
「ぼけっとしてると置いてっちまうぞ?」

 くしゃくしゃと髪の毛を無造作に撫でられて「わ」と小さな悲鳴を上げたが彼は構うところなしだ。そうして、二人で雨の中を再び歩き出す。
 ざぁ、ざぁ。
 雨の音が妙に彼女の耳に届き、そしてそれ以上に胸が痛いくらいに高鳴っている。彼女はこの状況を打破する答えを、持っていない。ただ、彼に触れる右手がいつもよりも熱い気がした。
 どうして今こんなにも熱いのだろう。ぐるぐると疑問を抱きながら、その大きくなった肩をちらりと見る。随分と大人っぽくなった。男の子、だと思っていたのに。
 頭の中をよぎった寂しさを振り払うようにぷるぷると首を横に振る。成長するのは喜ばしいことだ。人間というものは成長するものであり、それは決して彼だけではなく、自分自身も成長しているはずなのだから。
 の挙動不審な行動に染岡は僅かに首を傾げたが「相変わらずお前は能天気だなぁ」と直ぐに笑い返し、傘を僅かに上げた。

「たっちゃん、濡れちゃうよ〜?」
、お前こっち来い」
「なんで?」

 ざぁ、ざぁと雨脚は強くなる一方だ。傘を叩く雨の音も先ほどよりずっと強くなっている。染岡は「いいから」とだけ言うと場所をぐるりと変わった。
 そうして、何食わぬ顔で再び歩き始める。会話内容はサッカーの話、学校の話がメインだ。は染岡がサッカーを楽しんでいるときの話を聞くのが好きだ。勿論自分自身がやることも好きだが、それ以上に彼が楽しそうに話しているのを聞くと心が温まる。
 強いライバルが出来たこと、彼には負けたくないということ。そこまで聞いて彼女は心のどこかで豪炎寺という顔をあわせたことの無い転校生に感謝した。彼が再びサッカーを楽しみ、努力する切っ掛けをくれたのだ。

「……たっちゃん、楽しそうだね〜?」
「そうか? ……そーだな、楽しいぜ」
「そっかぁ」

 良かったね、と彼女は柔らかく笑んだ。その笑顔に彼も僅かに笑み返しおう、とだけ答える。
 信号前になり、二人の足は止まる。ぱしゃぱしゃと変わらずにアスファルトの上を雨が跳ねていた。台風が近いのだろうか。車も何時もよりも多く、ライトとテールランプが雨に濡れながら光る。

「……ねぇ、たっちゃん」
「なんだ?」
「さっき、場所変わったのって、危ないから?」
「…………泥はねたら大変だろ」

 ぷい、と彼はそっぽを向いてしまい、それ以上多くは語らなかった。ほんの少し、頬が赤いのはの気のせいではないだろう。
 とん、とんと雨の音は相変わらず激しく、赤信号は青に変わる気配も無い。

「そっかぁ、たっちゃんも大人になったねぇ〜、よしよし」
「ばっ……子供扱いすんな!」

 ほんわかと彼女が笑ったので慌てて染岡が反論しようとするが、彼女の柔らかい表情にどうにも振り回され気味だ。幼馴染というものはどうにもタチが悪い。お互いに思い出したくも無い過去をお互いが覚えているのだ。

「……は、もうサッカーしねぇの?」
「してるよ〜たっちゃんと」
「……じゃなくて、皆とって意味でだよ」

 一瞬、彼女の顔が強張ったのを彼は見逃さなかった。「女は一緒にサッカーをしてやらない」と彼女が同年代の少年達に言われたのは小学校高学年の頃だ。それ以降、が男子と混じってサッカーをすることを控えているのは染岡自身も知っている。
 だから、幼馴染である自分とだけサッカーまがいのことをするのだ。1対1ばかりで楽しいのかと聞けば柔らかく「楽しいよ」と帰ってきたのはつい最近のこと。
 それでも、サッカーの試合は11人対11人でやるものだ。二人だけでは試合にはならない。それでも満足なのだろうか、と染岡からすれば疑問である。男子サッカー部でさえ、11人集まらず、それが故に彼自身諦めて練習すらしなかった時期もあった。
 円堂のサッカーバカっぷりと、豪炎寺というエースストライカーに当てられての結果が今に繋がっている。努力し続ければ全ては結果に繋がるのだと円堂は言い、その結果がドラゴンクラッシュという染岡の必殺技を生み出すことに成功した。試合をすることが楽しい。試合で結果を残せることが気持ちいい。サッカーが楽しい。
 の場合は、違うのだろうか。
 彼女は雨をじっと見ながら何かを考え込んでいて、その真意は染岡には分からない。

「……、濡れるぞ」

 名前を呼ぶと、僅かに彼女が此方を向いた。その際、染岡は何を言おうとしたのかをすっかり頭のどこかに忘れてしまい、呆然と、彼女を見据えていた。
 そこで車の激しいクラクション音が響き渡る。慌てて彼女の体を守るように引っ張ると、まるで羽根のように軽く、何事かといっそ彼は目を丸くした。こんなに彼女は軽かっただろうか? そんなことを考えるよりも先にバシャッと水特有の音が耳に届く。車の音が遠くなると、ゆっくりと彼女から離れた。学ランの背中が妙に冷たく、どうやら泥をかけられたようだ。たっちゃん、との震えた声がする。

「大丈夫か
「う、うん。ありがとう、たっちゃん……でも、制服が……」
「あー? いーんだよ、別に。お前が気にすんな」

 ぽん、ぽんと頭を小突けばは「ごめん」と小さく謝った。彼女が悪いわけではなく、彼女を守らなければと思ったのは彼の本能的部分だ。彼女が謝る必要性はない。

「青になんねーな」
「うん」
「……
「うん?」

 雨の音は激しくなるばかりで、寒ささえ覚える。彼が唇を動かしたとき、彼女の耳には雨の音と、彼の零れ落ちる言葉と、己の心臓の音の三重奏を奏でていた。
 言い終えたときの染岡の気まずそうな顔に、大きく首を振って彼女は笑む。


「……か、帰んぞ!」
「うん」

 それ以上、彼は何も言わなかったし、彼女も深く追求することはしなかった。だが、繋がれた手は先ほど異常に熱く熱を持っている。
 雨のせいで気温が下がっている中、青信号になって渡る黒い傘はくるくると回った。

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