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 スパイクを履いて、爪先をとんとん、と僅かに地面に叩く。先日の雨が嘘だったかのように空は快晴、雲ひとつとしてない。穏やかな日差しと、すごしやすい気温に鬼道は体を伸ばした。
 今日は練習がはかどりそうだ。フィールドにも、その周囲にも人の姿はない。どうやら一番乗りらしい。
 一番というものは何でも気分が良いもので、がらんとしたフィールドを見ると何故だか気持ちが高揚する。
 ぐぐ、と軽いストレッチを行うと鬼道は足首を僅かに振り、深呼吸を一つ行い、誰に言われるわけでもなく、一歩一歩歩き出した。歩き出した足取りは随分とゆっくりとしたものだったが徐々に、また徐々に速くなっていく。タッタッタッ、走る際に小刻みに揺れる体と、リズミカルな心臓の鼓動がより活性化させる。

 そもそも何故彼がこんなにも早い時間に来たのか。色々諸事情はあるのだが、そこは省察しよう。
 タッ、タッ、タッ。足が地面を蹴る音がリズムになり、体温が徐々に上がっていく。呼吸を乱すことなく、黙々と走っていく。彼の耳に届いたのは、己の呼吸音と足が作り出す走りのリズム、鼓動の音、僅かに聞こえてくる風の音のみだ。時間も忘れて黙々とトラックをぐるぐると周る。
 
 何周目に突入しただろうか――不意に、足音が一つ増えた。
 軽快なリズムが僅かに狂う。音村のように言うならば「16分の1の休止符が変わった」というべきなのだろうか。何事かと彼は後ろを振り返った。
 ぴったりと彼を追いかけるように、黙々と少年が走っている。
 此方の視線に気付いたのかゆっくりと顔を上げて、そして微笑した。追いかけてくる足取りは鬼道のリズムを崩す。 、と僅かに口ごもると直ぐに鬼道は前を向き、思い切り地面を踏みつけ加速する。
 理由なんてものは安易すぎるもので、普段の冷静沈着である彼からはとても想像し難いものだ。
 単純に負けたくない。先ほどとは異なり一気にテンポが変わる。タッタッタッタッ、スタッカートのように走るリズム。けれども のリズムも上がり、結果的に何も変わらない。
 やがて、後ろにいたの足が伸びて、鬼道の隣に並ぶ。滲む汗。体中迸り、呼吸も乱れ始めたが――それでも鬼道は加速した。負けたくない。誰よりも特にこの男には。再び距離が出来た二人に対して、僅かに後ろから「上等!」という声が聞こえてくる。

 タッタッタッタ。足がより速く動く。再びが鬼道に並んだ。
 思わず体を入れるようにして妨害するが、サッカーのときと同じように当たりに負けず体をより入れて来る。ボールを奪いように、スペースを奪い合うように、ばし、と手が弾かれた。


「ん、の、野郎!」
「負け、るか!」


 気付けば、全力疾走になっていた。
 鬼道の頭の中には既に『ジョギング』という言葉はすっぽりと抜け去っていたし、の頭の中にも『準備運動』という言葉が抜けきっていた。
 唯、負けたくないという闘争心が二人の心を燃やし、今隣にいる男よりも速く走ってやろうということばかりが頭の中にインプットされる。
 何周したのか、もう数えてはいなかった。乱れる呼吸をしながらも、熱風が顔を叩きつける。
 二人が足を止めて、ばたりと倒れこんだのはそれから少し後のことだ。

「お、れの勝ちだ……!」
「ふざ、けんな、俺だろ……!」

 ぜぇ、はぁ、ぜぇ。グリーンに染まる天然芝に寝転がりながら、彼ら二人は先ほどの勝敗に関してを再び論争しあう。ちくちくと芝が肌に当たるというのに、鬼道もも気にする素振りはまるでない。ごほごほと鬼道が咳き込んだのでが意地悪く笑い「ほらみろ」とかすれた声でいい、さらに「俺の勝ちだ」と再び彼は宣言した。
 ……がしかし。べし、と盛大に顔面を叩き返すことに鬼道が成功すると「ふん」と鼻で笑う。彼はいつも自信のあるときはこんな風に笑うのだ。 が首だけ動かし鬼道を見ると彼はゆっくりと起き上がり「お前よりは速かった」とだけ言い返した。妙に説得力のあるその言い草に「何を」とは不快感を顕わにして噛み付こうとしたが、鬼道のマントが顔を邪魔して思わず目を覆う。

「何なら、もう一度勝負でもするか」
「へ、上等だ」

 ぐ、と体を起こし両足を地面につかせるとはぐぐ、ともう一度体を伸ばす。腰に手を当てていた鬼道に「いつでも良いぜ」と彼は歯を見せて笑った。横に揃って並び、スタンディングスタートの構えを取ると鬼道が「先に一周をしたほうが勝ちだ」と言い、もそれに頷き返す。
 こんなことをする理由は特にない。唯、お互いに負けたくはない。それだけだ。恐らくは女子からすれば馬鹿みたい、とあきれ返られて笑われるだろう。安易に予想がついたマネージャー達の顔に、思わずが噴出して笑う。彼女達ならきっと言いかねない。

「……なんだ?」
「いんにゃ、別に」
「そうか、なら、始めるぞ」

 用意、どん。その口頭によるスタートには僅かに反応が遅れた。後ろから「ずるくね?!」という声がかかったが、鬼道はそれを無視する。
 もくもくと全力疾走をする鬼道に対して、直ぐに は追いつき、並ぶ。けれどそのに対してより鬼道は足をより速く、速くと加速させた。ばちばち、と見えぬ火花が散った。
 ゴールまで300mになったとき、フィールドに誰かの姿が映る。


「あれ、二人ともはやいねー」

 とてものんきな声で、荷物を両手いっぱいに持って現れた少女。マネージャーの存在に思わず鬼道の足が止まった。だが、その横をがすり抜けて「お先!」と言い残したせいで一気に彼は現実に引き戻された。

! それは卑怯だろう!」
「馬鹿、止まったのお前だろ!」
「ちょ、ちょっと二人とも危ないからやめなさい!」

 彼女の脇を通り過ぎようとした結果、ぼとぼとといくつかのボトルが落ちる。そのせいか、少女の叱咤が二人に入った。
 彼女は両手に抱え込まれた荷物を一度フィールドに置くと、両手を腰に当てて「こらぁ」と一言だけ言葉を放つ。女子が男子に怒るなんて、と恥じらいの一つでもあれば可愛げもあるのだが、生憎と鬼道にとって彼女――木野秋の存在はマネージャーとしてで確立されており、異性というよりは仲間というに等しい。
 両足を揃えてぴたりと止まった二人に「まったくもう! もうすぐ練習だよ!」と一言添えると彼女は直ぐにボトルをサイドに置く作業に戻っていく。
 そのあっという間の一連の出来事に二人は暫く呆然と立ち尽くしたが、思わず目があうと苦笑いし合った。

「……秋は強ぇなぁ」
「ああ」

 どさ、とがフィールドに寝そべると再び風が吹いて彼らの髪を揺らした。穏やかな風だ。気持ちよさに思わずが目を細めると、彼の心情を組したように鬼道が彼の隣に座り「いい風だな」とだけ呟く。

「……だなぁ、気持ちいー」

「うん?」
「今度は約束を破るなよ」

 鬼道が拳をそっと突き出した。約束。反芻させて、記憶の片隅に置かれた思い出を思い出し、は大きく目を開いた。約束。そうだ、彼ら二人で抱いた夢があった、目標があったけれど、結局それはが辞めてしまった形で叶う事は無かった。そして、それを鬼道は未だ覚えている。

「……忘れてると思ってた」
「馬鹿、忘れるか」
「……おう。……絶対、制覇しような」

 四十年間無敗を続けた帝国学園のレギュラーを勝ち取って、そしてフットボールフロンティアの優勝トロフィーと優勝旗をお互いに持つのだ、という夢。目標。約束。絵空事のような言葉を鬼道は覚えていた。が部活を辞めてからも尚、覚えていたのだ。
 ……何故だろうかは鼻の辺りがつん、として、思わず目を伏せた。

「……鬼道」
「なんだ」
「さんきゅ」
「……なんだ、突然」

 別に、と少しそっけなくは言うと「さて、軽いストレッチでもするかぁ」と何事も無かったかのようにして大きな声を張り上げた。そして、走り出した彼の背中を鬼道はぼんやりと見つめる。無駄に明るい男だ。
 あっという間に見えなくなった背中を見送り彼自身も空を見上げる。
 スカイブルーに染まった雲ひとつ無い空。昨日の雨が嘘のようだ。ゴーグルを外せば目の周りに滴っていた汗がゴーグルをしっとりと濡らす。

「はい、お疲れ様」
「ああ……有難う」

 作業を終えたのか秋が戻ってきて、ペットボトルを一つ彼に差し出す。鬼道はそれを受け取るとやけにひんやりと冷たく、ほてった体にぴったりと付けたくなる。それ以上に咽喉の渇きがあったので一気に飲み干せば、体が潤いを取り戻していく感覚を覚えた。
 秋は笑いながら「二人とも元気ね」と言う。鬼道からすればのような人間と同類にされるのは御免なのだが――……彼女からすれば、どっちもどっちらしい。
 ペットボトルから口を離して「そうか?」とだけ返すと「そうだよ」と彼女は笑う。


「……それで、二人とも随分機嫌よさそうだけど何かあった?」
「……ま、悪くはない、かな」
「?」

 やられた、というようなの顔を見るのも悪くは無い。何よりもあの男が自分との約束を――目標を、もう一度、と呟いたのを彼は聞き逃さなかった。実に簡単なことなのだが、それでも嬉しいことに変わりは無い。 
 全国制覇。その舞台は帝国から雷門に移ったとは言え――鬼道の目標は変わらない。世宇子を倒すこと。全国を制覇すること。……それが、帝国に残した彼らのため。そして自分自身のためだ。
 よく分からないというような顔をした秋は「男の子って、不思議だよね」とぽつりと呟いた。彼女と自分達の間にある男女という埋められようも無い差は時々きっと彼女を孤独にさせているのだろう。視線だけを秋に配るが、秋は直ぐに笑顔を取り戻して「部室にいって皆呼んでくるね」と駆け出していった。
 もそうだが、木野秋という少女も随分と不器用な人間に鬼道には見える。雷門にはそういった人間が集まる習性でもあるのだろうか?そこまで考えて、鬼道は慌てて首を僅かに振った。その方程式でいけば彼自身も「そういった人間」に部類されてしまう。

「……よし」

 気持ちを切り替えるように溜息を零し、大きく背を伸ばすと彼はペットボトルに残った最後の一口を飲み干した。
 穏やかな風、晴れ渡る空。今日はより練習が出来そうだ。 風が、さわさわと吹いてカーテンが穏やかに舞う。



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