まるで作業が進まないのだが、気付いてはくれないだろうか。
嵩張る本をまとめていたはずなのに気付けば読書に没頭している張本人に僅かに彼女は視線を向ける。何を読んでいるのだろうか、僅かに首をかしげて本のタイトルを見ようとするがブックカバーがかかっていて彼女には確認できない。
むむ、と小さく唸ったところで当の本人には微塵も届いていないので、諦めてもう一度は溜息をこぼした。
部室の掃除をしていたはずだということに鬼道がいつ気付いてくれるのだろうかと淡い期待を抱いたがそれはどうやら結局泡沫の空想となって終わりそうだ。
如何せん真面目な性格をしているのに彼は世界に入り込んだら出てこない性格らしい。ゴーグルで本を読むことは困難なのだろう。首にまでずり下げて、黙々と視線を本に向けて文字を追いかけている。
「……しょーがないなぁ」
彼の手元に山になっている本ではなく新たな本……というかコロコロコミックスだとかジャンプだとかの雑誌をまとめ、縛り、山を片付けていく。回し読みをするというのは金のない中学生らしい発想だが何も部室にためなくたって、というのが正直なところ含めたマネージャー達の主張だ。
いつもあれだけ「掃除!」と叫んでいるというのに男子の耳には届かないらしい。
それはどうやら天才と謡われる少年でも変わらない。先日豪炎寺が昼食のお弁当を片手にジャンプを読んでいたときはどう反応したらいいのか困ったものだ。
思い出しただけで思わず噴出しそうになったが、彼女は慌てて顔を引き締めて部室の掃除に集中する。
びー、ばさ、どさ。黙々と作業する音だけが響く。
狭い窓を開け広げてどうにか風を入れるがそれでも部室の換気にはあまり効果がないものでが先ほど部費の予算から差し引いて購入してきたファブリーズが今こそ力を出すときがきたようだ。いっそのこと消臭剤を置いたほうがいいのではないだろうか、と画策しているのだが、それはまだ最後の手段としてとっておくことにしたようである。
「……」
「んー?」
ふ、と彼は何かに気付いたのか顔を上げた。本を読み終わったのだろうか、僅かに彼女は首をかしげたがどうやらそんなことはないらしい。
その証拠に彼の親指が今尚も本の間に挟まっている。
「この後暇か?」
「この後? 一応、予定はないけど」
「なら、買い物に付き合ってもらいたいんだが、構わないか?」
「買出し? 鬼道君が? 珍しいね」
普段彼が「何か物を購入する」ということをしないことは部内では既に有名だ。鬼道財閥の嫡男。跡継ぎ。つまり「不足しているもの」がないのだ。ものがなければ頼めば良い話だ。
けれどコロコロだのジャンプだのの回し読みをする際は勿論彼も頭数に入れられて人数分に割られて同じ金額を求められている。そういうところが妙にフランクなのが雷門の良いところなのかもしれないが――……それにしたって「鬼道有人」が買い物をするということに対しては困惑を隠せず思わずまじまじと彼を見据えた。
「因みに何買うの?」
「春奈に……何かを買おうと思っているんだが……まだ、思いつけてない」
春奈。その言葉には悟った。
鬼道有人の唯一無二の大切な存在。唯一の血縁である存在。戸籍上は他人、けれど血の繋がった実の妹。帝国時代の冷酷な彼を作り出しながらも捨てきることの出来なかった良心ともいえる存在。
大切な存在であるはずの彼らのすれ違いはとても苦いものだったが、そういった経験を経て、お互いを認め合い大切だと再確認した。
その彼女に、彼がものをあげたことがあるのかと聞かれれば――たかが十四年しか生きていない少年には恐らく答えは「No」としか帰ってこないだろう。
「……今まで誕生日もクリスマスも、なーんにもあげてなかったんだもんね」
「……」
「私はいいけど、そっちこそいいの?」
鬼道が顔を上げると彼は驚いたかのように僅かに眉を上げて、眼を丸くさせた。
普段は隠れている切れ長の赤い瞳。ぼんやりと彼女はその目を見ながら「ああ、ガラス球みたいだなぁ」と呑気に思う。ルビーだとか、ガーネットだとか、宝石ならいくらでも名前が出てくるはずなのに、それらとは違った輝きを見せるその瞳を「ガラス球」としか証することが出来なかった想像力の貧困さが非常に残念なところだが――それでも「綺麗だ」ということだけは確かに思う。
吸い込まれそうだな……と僅かに心の底で思ったが、それは言葉にしないで飲み込んだ。彼は言っている意味が分からないとばかりに僅かに首をかしげて「何がだ?」と尋ね、持っていた本のページを捲る。
他の男子ももっとまともな本を読めばいいものを。否、そもそも中学生でコロコロコミックを今でも読んでいる人間なんて数えるほどしか居ないと思うのだが、そこはあえて触れないで置こう。何より彼の脇にはまだサッカー雑誌だとか、ジャンプだとか魔の手先がいくらでもいるのだ。
はんー、と顎に手を当てると少々気まずそうに苦笑を浮かべる。
「二人でどっかいったら、噂とか……されない?」
「噂?」
「唯でさえ鬼道君、目立つし」
帝国学園の天才MF。ドレッドの髪に真っ赤なマント。サッカー界で知らない人間はいないだろう。その真っ赤なマントも、今ではブルーになっているが特徴的なその外見だ、元々目立っている。更に言えばその落ち着いた性格からもファンは多い。周囲に一目置かれ常に上を目指し続けている。それが、鬼道有人という男だ。
……それに自覚がないわけではないだろうが、彼は「ああ」と小さく頷くと別段気にしたわけでもなく本に視線を戻す。
「別に構わないが」
「何で?!」
「何で、といわれても」
彼はその赤い眼を彼女に戻す。先ほどからくるくると動き回って、けれど彼に催促はしなかった
の両サイドには本が山積みだ。気付かぬ間に彼女は一人でまとめてさくさく物事を進めていたらしい。
鬼道の意図がつかめないのか繁々と此方を見据えてくる姿は少し不機嫌そうだ。
「なんで?」
「……なんで」
質問に彼は答えることが出来ない。
何故か。単純に答えが見つからないからだ。別に噂をされたところで人の噂は七十九日とはよく言ったものでそのうち消えていくものだし、何より彼女も自身もそんなことを気にしている暇もない。何よりも――彼女とは衝突が絶えなかったはずなのに、不思議なものである。
「……さぁ」
「何それ、変なの」
は僅かに笑うと持っていた本をしっかりと縛り、また一つ山を作っていく。
さすがに彼も傍に置かれた雑誌の山を重ねて作業に取り掛かりはじめる。いつまでも女に任せるわけにもいかない。そう思ったのだろう。
「……で、これを何処に持っていけば良いんだ?」
「あ、うん、校舎裏に本とか雑誌のごみ置き場があってそこに業者が来てくれる様になってるから、そっちに」
「分かった」
彼は器用に三つの本の束を重ねると部室の扉をあける。全部で四つの本の山。その山の三つを彼が持っている。
は、と現実に引き戻されて
は大慌ててで本を持ち、部室の鍵をかけて鬼道を追いかけていく。待って、と彼女が言うまでの時間彼はすたすたと歩いていってしまい距離が微妙に出来てしまった。
「もー、一人で持っていかなくったっていいじゃない!」
「お前がずっと一人でやってたのにこんなことまでやらせられるか」
「えーでも、部室の掃除したかったのは私だし。……ほら、丁度四つだから、二つずつでいいじゃん」
「却下、そんな力ないだろうが」
すたすたと歩いていく彼に「場所知らないくせにー!」と文句を言いながら彼女は追いかけていく。歩幅は違うが、自然と並んで歩き、談話する。
どんなものがいいのかな、という春奈の希望を聞く鬼道に春奈の要望を考えてあれやこれやと案を出す
。ゴミ捨て場までの会話はもっぱらそれだったが――そういったものを普段他人とはしない鬼道にとっては新鮮以外の何でもない。
今までの彼は誰かのためだけに生きてきた。それは春奈のためであったり、自分を導いてくれた総帥のためであったり、義父のためであったり。……けれど、自分自身を見つめるのも悪くはない、と僅かに心の中で呟く。
誰かへ向ける彼の愛情は少々歪なものではあるが、確かなもので――そして、それは言葉にしないと届かないこともある。
「鬼道君」
「……なんだ?」
「だーから、はやく部室に戻って荷物とって、それで買い物行こうって」
「ああ……そうだな」
「自分が言い出したのにー全くしょうがないなー」
恋愛だとかは彼にとっては無縁な言葉だ。彼にとっての道はとても狭いものだから。けれど、少しだけ――彼の中で、ほんの少しだけ。
前向きに何かをするのならば、この学校で、そしてこの少女としてみたいと思った。だがその気持ちを何と名づけるのかは彼には分からないし、彼自身もまだ気付いていない。
感情に気付かないまま、
と再び談笑をしながら、彼らは部室へと戻っていく。季節外れの萩の花が僅かに風にそよいだ。
2010.03.27
萩の花言葉 : 過去の思い出・思案・前向きな恋・想い・内気・物思い