炭酸水の少年

「君はとても変な人だね」

 いつも水槽、もしくは海とにらめっこばかりしている彼女が少し目を丸くして、彼を見た。
 自然とその足も、両足を揃えてぴたりと音を立てるかのようにストップする。
「綱海を探しに来たんだけど来ていない?」と聞きに来て、図書館に本を返しに行くついでに彼の探し人を探すべく一緒に歩いていたときのことだ。何気ない会話をしていたが、唐突の「変な人」だという発言にはワンテンポ反応が遅れた。
 己のヘッドフォンから流れてくる大音量のリズミカルな音楽が耳に届いているはずなのに、まるで響くことなく彼の耳を通り過ぎていく。
 今は彼女に神経が集中しているらしかった。
 彼は閉口したまま彼女を見据え続ける。白衣がぱたぱたと潮風に靡き揺れる。ざわわ、ざわわと妙にいつもより風が強い。
 彼女は彼を食い入るほどに見ていたが、やがて目を逸らして「そうかな」と何時も通りに苦笑いにも似た薄い笑いを浮かべて片手に持っていた分厚い本を抱えなおす。
 彼は小さくうなずいて、並んでいた足を一歩前へ出した。一歩、二歩、三歩歩き、二人の間に距離が出来る。
 ようやく彼は振り返ると音を大量に流しているヘッドフォンをはずした。一気に外界の音が耳に入ってきて、潮風の音が近くなる。

「今の音は、16ビートだ」
「周波数で言うと900Hzぐらいかな?」
「もっとかな。1600Hzぐらい」

 トントンと指でリズムを取ると潮風と漣の音が彼の指に合わせるように音を立てて、大きくなる。車が彼らの横を通り過ぎていくのに、それらの音は彼らの耳には届かない。
 は持っていた本をもう一度抱えなおして一歩、二歩と彼とはなれた距離を取り戻すように歩き出し、そして並んだ。
 彼の首元ではボン・ジョヴィらしき男性の歌声が響き、彼女の耳にまでとどいた。


「……あまり大きな音量ばかり聞いていると、耳を悪くするよ」
「非科学的だね」
「周波数が同じものばかりだと遠くの音が聞こえなくなるものなんだよ」

 はいはい、彼女の忠告に応じるように音楽機器の電源を切ると「これでいいかい?」と彼女に尋ねた。いつも以上に少々大雑把な行動に敵わないとばかりには溜息を零して曖昧に小さく肯き返す。
 潮風に吹かれながら、海岸沿いの通りを並んで歩いていく。日差しはいつもと変わらず地面を溶かしてしまいそうなほどだ。コンクリートは鉄板のように熱い。彼女の格好に対して暑くないかと彼が聞けば暑いね、とは笑って、けれど脱げば荷物が増えるからと言う。

「水族館は空調が聞いてるから涼しいしね」
「あまり空調が効いてる所に長居するのも好きじゃないけどなぁ。折角目の前に海があるんだし」
「綱海は多分この様子だと今日も海だろうね」
「彼も元気だねー、本当に」

 海岸の向こう側、世界に広がる青い青い生命の母である海には今日もサーファーたちが波に乗り、まるで海洋生物のように空とも海とも付かぬ場所へ飛ぶ。
 その中でも花のように鮮やかな桃色の髪をした少年が一際目立つ。彼の存在は太陽のごとく眩しく、その波乗り方は独特で、周囲からぬきんでた実力から必然と人の輪の中心に居る。
 そのサーフィン小僧がサッカー小僧に変わったのは少し前のことで、現在進行形で沖縄に訪れている東京の学生たちに感化され始めていることを音村はもちろん、も気付いていた。
 けれどそれをあえて言葉にはしないでいる。
 決めるのは自分なのだ。「音村」でも「」でもない。決断をしなければいけないのは「綱海」なのである。
 中学生なんて子供なのか大人なのかさえ微妙なところに立っているから余計にそう思うのかもしれない、と音村は考えたが、綱海は自分たちよりひとつ年上だ。中学三年。来年彼がどこで何をしているのかなんてことは自分には分からない。恐らくは綱海自身にも分からないだろう。
 それでも、思うことは部員全員が恐らくは同じことだ。

「……本当は、もっと綱海とサッカーがしたいんだけどね。オレも、キャンも……みんなも」
「そっか」

 彼女は何も言わなかった。唯重たい本を何度も持ち直して、潮風に吹かれて目を細めて、音村の話に耳をすませていた。
 けれど、彼はそれを咎めるつもりもなく、寧ろ話を聞いてくれる彼女に感謝し笑う。

「君はやっぱり変な人間だ」

 再度納得したように何度も頷いて音村は言う。隣を並んで歩いていた彼女の足は再び一瞬止まって「そうかな」と彼女が笑った。
 じりじりと照りつく太陽が二の腕をちりちりと焼いている。今日も暑い。きっと明日も暑くなるだろう。
 けれど、彼は暑さが苦手ではない。暑さの中でサッカーをすることも、海に出ることも、彼女にアイスソーダキャンディの差し入れにいくことも、嫌いじゃない。

「持つよ、それ」
「……私からすれば楽也のほうがよっぽと変な人だよ」

 本を渡しては空いた掌を音村に向けた。何を意味しているのか分からずに彼が首を傾げればショルダーバッグを指差され、漸く納得する。
 けれど首を彼は縦には振らない。

「重いのに」
「いいんだよ。これぐらい持って当然だろう?」
「……紳士だね」

 仕方ないなぁ、とは肩を上下させて彼の手を取った。
 音村は唐突の彼女が起こした行動に驚いたが、僅かに笑うと手を握り返してみせる。暑さのせいで二人の手は汗ばんでいたが、お互いにそんなことを気にすることはなかった。

「砂浜は危ないからね」
「こういうのは男がするものだと思ったけれど、違うのかい?」
「偶にはいいじゃない」

 ざああ、と海風が再び彼ら二人の頬に打ちつける。髪の毛を気にしている場合ではない。そんなものは今更だ。
 歩きながら、ふと思い出したように音村は溜息を零した。

「こんなに探させるんだ、まったく綱海にはアイスぐらい奢ってもらわないと割に合わないよ」
「……そこは、条介だからねぇ。どうだろう」

 握った手は照りつく太陽よりも熱い気がしたが――それでも、離すことなく砂浜に一歩足を踏み入れる。
 エメラルドグリーンの海と白い入道雲とスカイブルーの空が視界一杯に広がり、彼らは思わず目と目を合わせてほぼ同じタイミングで噴出し笑った。
 ――そんな、夏の日。

B A C K

2010.01.18

【WILD ROAD-完全選択式short No.75 炭酸水の少年】