サッカーボールの籠からボールを全て出して、はじっとそれらを見据えた。土で薄汚れた沢山のボールは一つ一つ選手たちの努力の証にも見えて、どことなく可笑しい。
ジャージを肘辺りまで捲くると雑巾と水の入ったバケツを重々しく持ってくる。部員たちは今頃着替えているだろうし、マネージャーたちも手続きで忙しい。手伝ってくれとは言えなかった。
彼女自身あまり気にもしていないし、普段あまり力になれていないことを痛感してもいたので丁度いい。出来ることがあってそれで彼女たちの負担が減ればいい。雑巾を思い切り水に浸し、引っ張り出して思い切り絞る。からからになって、ボールの一つを練習がてらワンタッチで上にあげて、手にとる。そこで彼女は「あ」と小さな声を再び上げた。
空気がスカスカで、入っていない。
どうしたものか、彼女は考え込んだ。普段のボールの手入れは暇さえあればキャプテンの円堂と、そしてマネージャー歴の長い木野秋が終わったら手入れしている。磨き方の最低限は彼女も知っているところだが、練習の【前】か【後】に空気を入れるべきなのかということをは覚えていない。忘れてしまっているのか教えてもらったのかも曖昧なところだ。
おろおろと左右を見たが、当然人気はない。
呼びに行くことは出来た。だが、それを彼女はしなかった。必死に思い出そうとして、頭にこめかみをあてて、うーん、と小さな声を上げる。ころころ、とボールが風に吹かれて勝手に動いていくことすら気付かない。
かしゃん。
大きな音が耳を貫くようにして響いたので、体がびくりと跳ねた。慌ててそちらを振り向けば、雷門独特の肩にラインの入った制服を纏った少年がボールの一つをまた蹴るところだった。綺麗に曲がってボールはかごの中へ吸い寄せられていくように落ちる。小さくバウンドして、そしてボールは沈黙した。
凄い、と彼女は思わず声を漏らす。少年は顔を上げた。実に呆れたような、何ともいえぬような顔をしていて、少し萎縮してしまうのはいつもの自分の行動のせいだろうか。
「転んだのか?」
「ち、違うよ!」
「どうだかな」
普段の行動を見透かされているような気もするが、あいにくと彼女はそこまでドジではない……とは主張するだろう。無論そこまでドジではない。ただ単に余所見をしやすいだけだ。
ひとつ、また一つ彼はつま先と足の甲で持ち上げて、そのままダイレクトにボレーでカーブさせ籠に入れていく。一つ、二つ、三つ。四つ目にかかった時に、まるで魔法から解けた様に、はっとは顔を上げて手を上げる。
「ス、ストップストップ! ちょっと待って鬼道君何してんの!?」
「何って片付けだろう? が転んで広げたボールの」
「だから転んでないって、わざとボール広げてあるんだってば!」
いっている意味が理解できず、鬼道は首をかしげた。慌てては「ボールを磨こうと思って」と説明を簡易的に説明をすると、ああ、とだけ答えが返ってくる。
は今鬼道が蹴りいれたボールを一つ一つ拾いあげて脇に抱える。無駄手間だとは何故だか思わなかった。お疲れ様と笑顔を作って言い、籠の横にボールをぼとぼとと落としてバケツを隅っこへ追い遣ると、矢張り未だ突っ立っている鬼道が居たのでは薄く笑った。
「鬼道君も制服なんだから、駄目だよボールその状態で蹴ったら。まだ磨いてないんだから汚いよ?」
「ああ……」
「……」
「……」
妙な沈黙が訪れた。その奇妙な沈黙中、は雑巾を何度も絞って絞って、からからになるまで絞って広げて、再び絞ったりしていた。もう水などでないというのに。
鬼道はその違和感を見抜き、だがだからといって追求するわけでもなく、マントの内側で腕を組み、彼女を観察し続ける。
踏み出したのは、矢張りだった。挙動不審に視線を四方八方へめぐらせて、そして意を決したように小さな息を吸う。緊張が伝わったのか、僅かに鬼道の手が強張り、口は真一文字で結ばれた。
「あ、あのさ」
「何だ」
「……」
「……何だ、」
「あの、さ……ボールの空気って、入れるのは、練習後、だっけ」
一瞬、鬼道が脱力したように見えたのは気のせいではないだろう。だが彼女は実に真面目に尋ねている。その真剣そのものの表情に、思わず鬼道は噴出して笑いたくなった――が精一杯真顔で返すことにした。
第一声、それも真面目に尋ねるようなことではないだろう。否、確かに大切なことではあるが、尋ねるにしてもこんなに沈黙して聞くことではない。
「練習の始まる前だ。……お前、いつもやってるだろう」
「そそそれはそうなんだけど、ほら、私、あんまり練習後にボールの空気入れとかしないから……洗物で手一杯で」
空気の抜けた風船のように徐々に萎んでいく声に今度こそ鬼道は噴出した。笑いのツボを抑えたのが悪い。そう彼は彼女に罪を擦り付けてくつくつと声を押し殺しながら笑った。
押し殺すといっても、肩はぶるぶる震えているし、口元を押さえているといっても客観視すれば笑っていることは明白だろう。の非難の声が聞こえた気がするが、そこは無視だ。
暫くして、笑いが収まるとゴーグルが熱を持ってぼやけていることに気付く。涙を拭うついでだと額あたりまで持ち上げると不機嫌そのものの彼女が腰に手を当ててジト、と彼を見据えている。
御立腹状態なのは明白だったが、サラリと無視してボールを一つ拾い上げた。土で汚れたサッカーボールは手で小さく叩くだけで随分と土がぼろぼろと落ちる。
「、雑巾貸せ」
「……え」
「聞こえなかったのか、雑巾を貸してくれと言ったんだが」
ああ、と慌てては手に取っていた雑巾を鬼道に渡すと、彼は実に神妙な表情でごしごしと拭き始める。
その手馴れた、縫い目にそった綺麗な拭い方には知らぬうちに視線をボールと彼の手に集中させていた。本来ならば制服が汚れるだとか色々言うところがあったのだが、それすらも忘れてしまうほど、彼のボール磨きは早かった。
あっという間に綺麗になったボールをに渡すと鬼道は「どうだ」と言わんばかりに彼女を見据える。ボールに土はもうない。足跡も、ない。それどころか効果音で「ぺかー」と音が付きそうなほどに、輝いてさえ見えた。
真っ白と真っ黒のコントラストがはっきりした綺麗なサッカーボールに姿を変えたボールに、思わず小さくは拍手を送る。
「お見事」
「ボール磨きは日の当たらないところで、風通しのいいところでやるといい。……そういう意味では、此処は適してるな。練習終わって直ぐ拭き始めると泥が固まらないで済む。覚えておけ」
「成る程……どうも有難う、後はやるから鬼道くん帰っていいよ。春奈ちゃんなら新聞部のほうにさっき行った筈だよ」
ゴーグルをしっかりとはめなおしたが、鬼道はそのまま黙り、動かない。どうしたのだろうかと首をかしげるに彼は溜息を一つだけ零して、彼女の名を呼んだ。
「何?」
「……お前、マネージャーになって何ヶ月になる?」
「う……ごめん、中々上達しなくて……」
「そうじゃない」
遮るように言った鬼道に、は首を横に振った。入部して大分たつが、余り役に立っていると言う感覚はない。寧ろ迷惑しかかけていない気がする。じわりと涙が出てきたがそれを見せるのは彼女のプライドに反した。
まだ何もしていないうちからそんな泣き言を言うわけにはいかない。そして何より教えてくれているメンバーに顔向けできない。
そう思うのに、涙がまた落ちた。
地面に雨が降る。彼女の顔は上げられない。
ボールが転がったまま、グラウンドは沈黙を守っている。テニス部のメンバーの練習している声が遠く遠く響いた。
「うわ、なんか、ほんと、ごめんね……ああ、もう、私凄い駄目だ……」
「……そう思うのなら、努力しろ。俺はお前に優しい言葉をかけるつもりも、慰めるつもりもない」
「……分かってるよ」
「そうか」
鬼道の言葉は嘘がない。厳しいが、真実のみの言葉だ。そのきつい物言いに胸が痛くなることも何度かは経験したが、だがそれが故にダイレクトに伝わる優しさがあることに気付けた。
ぶっきらぼうだが、冷たくはない。それが鬼道有人の持つ「優しさ」だ。それは、彼独特のもので、他人にはないもの。
それが故に弱いところは見せたくない。彼にだけは弱いところは、見せたくはない。その思いに反して一番世話になっているのが彼という矛盾だ。
その感情を何と取ればいいのかは彼女は知らないし、興味も持たない。
ただ、彼は他のメンバーとは違う【何か】を持っていて、その【何か】に自分が惹きつけられているという事実がある。このことだけは確かだ。
鬼道は立ち去らなかった。も彼を急かさなかった。
顔を必死にごしごしと拭うとは顔を上げた。雑巾を握り締めて、くぼみに腰掛けるとゴシゴシと先ほどの鬼道と同じようにボールを磨いていく。彼のように直ぐ、うまく、綺麗にとはいかなかったが、黙々と彼女は磨いていく。鬼道はそれを見て、己もまたバケツにかけられたもう一枚の雑巾を水に浸して絞り、ボールを拾い上げると彼女の隣に腰掛けた。
無言でごしごしと拭うその姿に彼女は視線を送ったが、鬼道が沈黙していたので、何も言わず己のボールとの葛藤を始めた。
どのくらい、ボールを拭いていたのかも分からない。
七個目のボールを手に取った時、鬼道が僅かに声を上げた。彼女の名前だった。
「……うん?」
「お前はよくやってる、と俺は思う」
「…………どうしたの、いきなり。さっきと言ってる事違うよ?」
「人の話を最後まで聞かないお前が勝手に勘違いしただけだろ」
誰もお前を評価してないと思ってでもいるのかと、彼は十個目のボールを籠に入れるとを見据えた。
評価している? 誰を?
理解できないに十一個目のボールをの横に落とし、彼は小さく笑う。やっと把握したは目をこれでもかと見張ってボールと鬼道に何度も視線を行き来させて頬をぺちん、と叩く。痛みを感じる以上、どうやら夢ではないらしい。
「……鬼道くんが私を褒めた……?」
「お前は俺を鬼か何かとでも思ってるのか?」
「違うの?」
「そうか分かった、余程怒られたいようだな」
「うわっごめん、違う違う、嘘ですー! ほんっとごめんって! ……嬉しいよ、ありがとう。鬼道君にそういわれると頑張れる、かも」
凄いねぇ、鬼道君って。
妙にしみじみとしながらは笑った。
先ほどから攻守がめまぐるしく変わっているが二人の会話はボールを磨きながら繰り返されている。手を休めないのはさすがというべきだろうか。
「凄い」の言葉に鬼道の手は止まったが、の手は休まらず、彼女はボールに視線を送ったまま離し続けた。
「あんなに今落ち込んだのに、あっという間に元気出た。すごいねー、鬼道君。魔法でも使えるの?」
「……まさか」
鬼道の手が再びボールの上を這い回る。ごしごし、ごしごしと擦る音との声がユニゾンする。
「そうかなぁ。……でもいっつも助けてくれるし、アドバイスくれるし、サッカーの練習だって疲れてるのに付き合ってくれるし。……ねぇ、なんで?」
何でそんなに良くしてくれるの?
変化球でもない、直球そのものの質問に、彼の手は止まった。彼女の手も同じように止まり、視線がぶつかった。
時間が止まったように、再びグラウンドに静寂がやってくる。カア、カアと烏の鳴き声がどこかから聞こえてくるが、それも二人の耳には届いていないのだろう。
返事を待つように動かないに、ゆっくりと鬼道は静かに唇を開いた。
「――お前は、どこまで分かってる?」
「どこまで、って」
「冗談で俺が人とキスをするとでも?」
一瞬で思い出された出来事に、の頬は一気に紅潮した。「あれは夢だ」とシャットダウンしたことを彼は恐らく見抜いているのだろう。
ゴーグル越しの目は少し憂いを帯びていた。その目を直視できない己を恥じる一方で言葉が上手く出てこない。
違う、との思いは彼女の言葉にならないで消えた。鬼道がゆっくりと立ち上がり、最後のボールを籠に落とす。
「……俺は、お前が嫌いじゃない」
「…………」
「……多分お前は俺にとって、特別、なんだろう。見てたら手を貸したくなるし、居ないと姿を探す」
知らなかった感情だと、彼は笑った。は鬼道を見上げるが彼の表情は見えない。「悪かったな」と言って、鞄を掴むとに視線を送らずに逃げるように歩き出した。
―― どうしよう。どうしよう。どうしよう。
ぐるぐるとの頭はパニックに陥る。
―― どうすればいい。いやそもそも特別って何。どういう意味? 寧ろ何で人の話聞かないのあの人。
グルグル混乱して、パニックになって、そして彼女はひらひらとマントを翻して歩く鬼道に対して腹立たしさを覚えた。
気付けば、走り出して、気付けばそのマントを思い切り引っ張って、「バカ」と叫んでいる自分がいた。
驚いたように振り返った鬼道に怒涛の勢いで叫んで詰って、その震える手で必死にマントを引っ張り続ける。
「バカ、鬼道くんのバカ! 本当バカ、バカバカサッカーバカ、妹バカ、サッカーバカ!」
「……馬鹿馬鹿と失礼なやつだな、お前も」
「バカだからバカって言ってるんでしょ、バカ! 何で勝手に来て勝手に帰ろうとしてんの?! っていうか何言い出してるの、しかも答え聞かないわけ?! 自己完結させてそれで私にどーしろってのよ!」
「……、引っ張るな、後人の話を聞け」
「何よ嫌いじゃないって、何それ、ちゃんと言ってくれなきゃわかんないよ、そんなこと言われても分かんないよ……」
泣いては居ない。だが、彼女は振り向いた鬼道に真っ赤になるほど怒っていた。ぎゅう、とマントを引っ張って、そして彼女は最後にもう一度、バカだよ、と呟いて今度は押し黙った。
首だけ振り返っていた鬼道は彼女がマントを離したので向かい合わせになるように振り返り、ゆっくりと右手を上げる。 が、彼女に触れるよりも前に一瞬躊躇ったように手が止まる。そしてその手がつくかつかないかの時彼女の肩が僅かに震えたのを彼は見逃さなかった――が、意を決したように彼女の肩に触れる。
不恰好に、なだめるように、ぽん、ぽん、と叩くと、妙に落ち着いてきて見る見るうちには現実に引き戻された。
……今のは、何だかとっても告白ぽかったような……。
急速に頭が冷えていく。自分の思ったことを口走る性格はどうにかならないものかと発狂すらしたくなる。そしてこの状況は何だ。まるでどこかその辺にいるバカップルみたいじゃないか。羞恥心とその他色々己の失態に自己嫌悪し、は僅かに震える。
「な、ななな」
「な?」
「なし、今のなし!」
聞かなかったことで、と逃げ出そうとするに、彼の腕が今度は伸びる。
がし、と音を立てて左腕をつかまれるとくるりと反転させられて再び見据えあう形になってしまった。うわーと悶絶するを他所に、鬼道は何食わぬ顔で、いつもどおりに彼女に悟させるように言う。
「……じゃあ、お前は俺の言葉に返事だけしろ。……それだけならできるだろう?」
「……返事……?」
「お前が、好きだ。……だから、今、お前の答えが聞きたい」
今先ほどとてもじゃないが「嫌いじゃない」といったような男の言葉には聞こえなかった。
は無論そんな問が来るとは思わず絶句し――そして、押し黙る。答えるには勇気が必要なのは、鬼道は当然今言ったばかりなので黙っていた。無論彼は「うまくいく」とは思っていない。恐らく彼女は己のことを友人、師程度にしか見ていないだろうという自覚がある。だが、逃げるなと彼女は言うように追いかけてきたから――だから、逃げるのをやめた。それだけだ。
彼女は、暫く黙っていたが「ずるいね、本当に」と呟くと、小さくだが確かに笑ってみせた。彼女の言葉は自分に対してなのか、彼に対してなのかは分からなかったが、苦笑いを浮かべて両肩を落とす。
ちらりと鬼道に視線を向けると困惑と羞恥が織り交じったような表情で答えた。
「私も鬼道くんが多分、特別なんだと、思う……ってことじゃ、駄目?」
「………………人に言い直させておいてそれか」
「うっ……それを言われると……」
彼の意見は最もだ。鬼道が聞きたいのは曖昧な答えじゃない。もっとはっきりとした、イエスかノーか。それだけだ。
の、そして先ほどの鬼道の言葉は逃げが混じった言葉にすぎない。それを言ったのは他の誰でもないだというのに、その当人が逃げるというのは何事か。
責める目で彼女を鬼道はじっとにらみつけた。
「……」
「…………ううう」
「……」
「……ううううう……、わ、分かったよ……言うよ……」
木々の葉がが掠れるような、とても小さな声では彼の言葉と同じものを導いて、そのまま彼女は完璧に顔を伏せて「もう帰るー!」と騒ぎ出した。顔が赤いのは仕方のないことだろう。
だが、当然彼は甘やかすことなく、いつもの通り「ボールをしまってからな」と容赦なく、さっくりと言い放った。
「本当もうやだー、鬼道君いつも何もかもいきなりすぎるし! そもそもキスする前に言うことでしょこういうのは!」
「……普通キスした時点で分かるもんだがな」
「うるさいうるさいー!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎながら彼らは夕焼けが沈み行くのを背にしながらボールの片づけへと戻っていった。
2009.11.22 いい夫婦の日に併せて。