ほしのうた




 朝がまた来るのか。憂鬱そうに彼女は瞼を開けた。蚊に刺されたのは自業自得なので仕方ないためは重々しい溜息をつく。
 のそのそと起き出すと向かいの布団で眠る少女たちの呼吸音が聞こえてきて、少し笑顔になる。いつも早起きなのに珍しいな、と思いながらも寝巻きのTシャツからいつものジャージに着替えて一歩外に出ると夏だというのにも関わらず外はまだ、肌寒かった。
 空はまだ朝日は差し込んできていない。今何時だろうか。キャラバン内の時計を確認するとまだ四時になったばかりで、そんな早起きをした自分が意外でしょうがなく彼女はちょっと驚いた。

「……皆が起きる前にランニングしてこよっと」

 朝に彼女は弱いというイメージがつかれているのは、寝坊だとか寝起きが悪いだとか様々な理由がある。そんな彼女が朝起きて早々に躍起になるは珍しいことこの上ない。スニーカーの紐をしっかり結ぶと彼女はキャラバンから走り出した。
 林を抜けて、高台までの階段を上っていく。坂道は緩やかだが長く、一定のリズムを保っているはずなのに足がガクガクと震えていることを彼女は感じ取った。フルタイムで走っている選手たちはよくもまぁあんなに走れるものであると感嘆の声を上げたくもなる。
 少し肌寒かったはずなのに己がカロリーを燃焼することで体が熱くなって寒さを忘れてしまう。どくんどくんと心臓が早鐘のように鳴って、足は言うことを聞かない。まだそんなに走っては居ない。精々五キロもいっていないところだ。だが、それでもは黙々と足を動かし走らせる。
 何かを吹っ切るようにして、高台の最後の階段をだん、と踏みつけると空が見えた。まだ、紺の空は静寂を守っている。今の時間はどのくらいなのだろうか。高台の時計に目をやればあれから一時間、黙々と走っていたことが分かる。

「あっつー……」

 暑くて死にそうだ、と火照った身体を歩かせながらはキョロキョロと周囲を見渡す。さすがにこの時間にもなると人はいなかった。色あせた緑色のベンチに腰掛けて足を投げ出すと地球の重力に乗るようにどすん、と体中が重みを増す。うぐぐ、と思わず漏れた重たい声と、吹き出る汗が熱風に吹かれて体が徐々に冷えていくのを感じる。
 夏の朝は早い。そろそろ朝焼けの時間だろうか。首だけを動かせば薄く空が白んできた。濃紺の空が僅かに、徐々に紫紺に色を変えていく。
 太陽はまだ昇ってこない。はゆっくりと身体を起こした。立ち上がる気力がないのでベンチに腰掛けたまま。

 誰かの足音が、遠くでした気がした。トン、トントン、トン、トン。一定のリズムを持った足音。階段を上る音。それはずっとが上ったときよりも早くて、一定のリズムで、軽快だ。視線をそちらに送る。音は徐々に近づいてきた。
 誰が来るのだろうか。少し楽しみな気がしたが、振り向く気力は残っていないので足を投げ出したまま、彼女は東の空をじいっと見つめ続けていた。最後の一段を上る音、そしてかつかつと近づいてくる足音。余りにも近くなった足音に漸くは視線をそちらへ投げかけてみた。そして、絶句する。
 てっきりその辺のランナーが朝のジョギングをしているのだと思っていたが、彼女の予想は大いに外れたことになる。ヒューヒューと僅かに聞こえる呼吸音。上下する肩と、それにより僅かに揺れる髪。

「……おはよー、早いねぇ」
「…………」
「鬼道君?」

 ぐったりしていたと違うのは矢張り彼は現役の選手だからだろうか。汗が頬を伝っているのを丁寧に拭いながら彼は彼女を確認するとつかつかと足を速めてやってくる。キャラバンから此方までくるのに少しの時間を要する。彼もまたジョギングにでも来たのだろうか。そんなことを考えながらはひらひらと彼に手を振ってみる――が、彼の険しい表情は変わらない。

「どーしたの、いつもより随分不機嫌っぽいけど」
「……」
「あ、走ってきたなら、なんかジュース買ってこようか?私財布あるし」
「……」
「……鬼道君?」

 空が、紫から一瞬の赤へ変わっていく。赤い赤い、まるで夕焼けのような空。
 彼女は首をかしげて彼を見た。彼は無言のまま、その手をぎゅうと握り締める。妙に切迫とした表情に違和感を覚え少し眉間に皺が寄った――が、会話はそれ以上紡がれることがなく、彼女の腕は彼の手とは異なりだらりと力なく宙ぶらりんになる。
 燃えるような真っ赤な瞳は、朝焼けの空に近い色だった。覚えているのはそこまでで、それが離れた時彼女は絶句した。急速に体が冷えて、正に青ざめるに等しいだろう。普通ここでなら顔を赤らめるだとか、他にも反応があるはずだというのに――彼女は青ざめた。

「な、な、な……」
「帰るぞ」
「なななな…………」

「何、今の」

 彼女の問はもっともだったが、彼は返答することなく静かに、笑った。




「さぁな、自分で考えろ」



 さっさと行くぞ。そういって差し出された手をは釈然としない顔ではあったが握り返し、起こしてもらった。
 余り関係のない、事務的な会話をしながらも、その手は引かれたまま階段を降りる。そこで漸く彼女は立ち止まる。あっという間にぐるぐると動く思考回路。あっという間には黙りこくり、そして無言の叫びを上げた。声にならない叫びというのならばきっとああいうことだろう。

「何やってるんだ、お前」
「しししししし信じられない鬼道君!」
「は?」
「汗臭いし!しかも外でこんなことするとかああああ有り得ない!っていうかそもそもする意図がわかんないし!」

 完璧に混乱しているのだろう。思わず頭を抱えながら「ないないない!」と繰り返すに鬼道は階段を二段、三段と着々に降りていき、手が離れる。そして、一つ目の踊り場に足をつけるとぐるり、と回れ右に等しい形で彼女を見上げた。
 服はユニフォームではなくジャージで、珍しくマントをしていなかった。ゴーグルもしてないという、そのままの状態で実に珍しいに等しかった。




「本当に分からないのか?」



 笑っているのか、怒っているのか、泣いているのか分からない口調で、鬼道が尋ねる。の目がしみるのは、オレンジ色の太陽がゆっくりと上ってきているせいだろう。涙でぼやけて見えないのを、彼女はそう誤魔化した。
 沈黙した彼女に、鬼道はじっとを見つめたまま動かなかった。鋭利な瞳が全てを見透かしたように彼女を射る。が口を開いたのはおおよそ三十秒ほど沈黙してから、漸くのことだ。


「……分かった方が、いいの?」


 彼は少し瞠目したが、直ぐに口元を緩ませた。ゲームメイクをする時のような、挑戦的に近い笑顔だ。は真っ直ぐと鬼道を見据えた。目と目が、先ほどとは違った意味でぶつかり合う。
 そして、彼はもう一度、手を差し出した。


「――それくらい、分かるだろう?」

 二人の会話はそこで途切れて、まるで何事もなかったかのようにキャラバンに戻っていく。
 けれど、彼らのその手は階段を降りていく間ずっと、つながれたままだった。



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 2009.11.22 いい夫婦の日に併せて。